27『岡山(美作・備前・備中)の今昔』戦国時代の三国
1496年(明応5年)、播磨、備前及び美作の三国守護・赤松政則が死去し、一族の義村が家督を継いだ。ところが、播磨の国揖保郡浦上荘(現在の兵庫県龍野市揖保町)の地頭から身を起こし、赤松氏の補佐をしていた浦上氏が、しだいに主家を凌ぐ力を誇示するようになる。1520年(永正17年)、赤松義村の軍勢は村上方の岩屋城を包囲するも、救援に向かった村上村宗の軍勢の攻撃を受けて大敗を喫す。村上氏は、その後、備前と美作の大半及び西播磨地方を支配下に置いていたが、傾き加減も甚だしい室町幕府管領(かんれい)の細川高国に与して中央政界に進出するものの、その高国は一族の内紛で細川晴元に敗れ、その目的を果たせなかった。浦上宗景が天神山城に移って間もない1532年(天文元年)になると、北の出雲国の守護代にあって、同国の能義郡富田(現在の島根県広瀬町)に本拠をおく尼子氏(あまこし)が美作に食指を動かし始めた。以後、美作の国衆の中に、尼子に与する豪族が増えていく。
尼子氏は、金川城主の松田氏とも組んで、備前北部から備中、そして美作東部に勢力を伸長させつつ、浦上氏、赤松氏ともども互いに覇を争ってゆく。その後の戦国期の1552年(天文21年)において、尼子晴久(あまこはるひさ)が足利幕府の将軍足利義藤(のち義輝)に出雲、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)に加え、美作、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)の守護に任じられた。1554年(天文23年)、尼子氏はその余勢をかって、安芸(あき、現在の広島県東部)に積極果敢に進入して毛利勢と戦ったものの、かえって大敗を喫してしまう。続く1558年(永禄元年)頃になると、備中、さらに美作へと広がってゆく。
ところで、この頃、津山盆地のやや北部に位置するところに中山神社という神社があった。この社は、707年(慶雲○年)の創建とされる。大和の朝廷から、備前国から北部6郡が『美作国』として分国の命令が下った。その時に、備中国の吉備中山のふもとに鎮座する吉備の総鎮守である吉備津神社より勧請したのが始まりといわれる。 中山神社という社名は、吉備中山に由来しているとのことだ。
地の人々から久しく篤い信仰を受けていた神社であったが、1533年(天文2年)、尼子氏の美作攻略のとき兵火により社殿が焼失してしまう。天文年間(1532年から1555年)にかけて、尼子一族の支配に不満な百姓たちの土一揆が起きる。これを鎮圧すべく、尼子勢が百姓たちが根城にしていた社殿をめがけて攻撃した。その時、火の手が上がったものかもしれない。尼子氏が意図的に燃やしたとは断定できない。気がついたら燃えていたということも考えられなくもない。1559年(永禄2年)、出雲の富田城主の尼子晴久が「戦捷報賽」と称し、社殿を復興する。かねてから、尼子は先の火災の後味悪くして、再建の機会を狙っていたのかもしれない。建物の形式は、世に「中山造」(なかやまづくり)と称せられ、これが現在に至っている。棟梁は、伯耆の国の中尾藤左右衛門といい、完成までし18年かかったらしい。出雲大社を造った頃からの大工魂といおうか、その出雲からやってきた頭領たちが指揮して建てた本殿が奮っている。「入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪」というから、どっしりと威厳がある。ゆえに、1914年(大正3年)には国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財となっている。
話は合戦に戻って、毛利氏(もうりし)と尼子氏の日常茶飯の勢力争いを繰り広げる。
1566年(永禄8年)頃には、毛利氏が尼子義久の本拠である富田月山城に攻め寄せ、ついに降伏を勝ち取り、かくて毛利氏は山陰、備後、備中を手中に収めることになった。
この影響から、備前の一部、みまさか地域への毛利氏の影響力も高まり、浦上宗景の勢力と踵を接するまでになっていた。やがて安土・桃山期に入る頃には、東からの織田氏の勢力範囲が姫路から西へと伸長してきたことから、西からの毛利勢と、織田氏と結んだ南の岡山からの宇喜多勢との間のせめぎ合いがこれらの地で激烈に繰り広げられてゆく。
宇喜多氏は、もともと、邑久郡豊原荘(現在の邑久郡邑久町)のあたりを本拠地とする豪族であったのが、1543年(天文12年)頃の宇喜多直家は一時は毛利氏との戦略的提携をはかり、1568年(永禄10年)には毛利方の先方隊となって5千の兵で、備前にに攻め入った三村元親の2万の軍勢を蹴散らした、この戦いは「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ばれる激戦であったが、その勝利によって独立勢力としての力を持つに至った宇喜多氏は、その翌年の1569年(永禄11年)には松田氏が本拠地とする金川城の攻略に成功し、この地を橋頭堡に美作と備中をうかがうことで、今度は毛利氏と対抗するようになっていく。1571年(元亀2年)、宇喜多の将である荒神山城主の花房職秀は、毛利の将である杉山為国と戦う。宇喜多直家が片山左馬助を院庄城におく。
その流れから、宇喜多直家は姫路の黒田官兵衛の調略で織田方に与することになり、本拠の岡山から美作へ北上してきた。その時、その地域の侍たちの多くも、宇喜多氏による支配を好まず、むしろ毛利の方に組み込まれるのを望んでいた。特に、平安期から美作の東部全体(本拠は現在の勝田郡奈義町)にかなりの影響力を持っていた「みまさか菅(すが)党」の大方は、宇喜多の勢力に圧迫を受けた形となっていたのではないか。
このような宇喜多嫌いの風潮が根強くあったのには、宇喜多の宗教政策が強引なものであったことにも依るのではないか。『作陽誌』は、浄土宗誕生寺の受難につきこう述べている。
「備前太守に宇喜多直家なる者あり。大いに日蓮宗にこり、諸宗をてん滅しおおいに日蓮宗を興さんと欲す。天正六年五月二五日、宗徒三百余人を率いてこの寺に寇(こう)し、仏像を切り僧徒を追い、寺をこわし経巻をもやすなど凶暴無状をこうむれり。
まさに法然上人の肖像砕かんとしたとき、寺辺に匠あり潜んでこれを負い山中に逃れ隠す。」
(続く)
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23『岡山(美作・備前・備中)の今昔』建武新政・室町時代の吉備(南北朝統一前)
ところで、備前、備中、美作の武士の中には、児島高徳らのように論功行賞では新政府から冷遇されていたにも関わらず、この軍勢に加わって足利側を追撃する者もかなり出た。その敵・味方入り乱れての戦(いくさ)模様を、『津山市史』はこう伝えている。
「元弘の乱で、船上山にはせ参じ、天皇方の味方として、京都の合戦で活躍した美作東部の武士たちも、建武3年の春までに離反して武家方についている。『太平記』によれば、美作ニハ、菅家・江見・弘戸ノ者共、奈義能山・菩提寺ノ城ヲ拵ヘテ、国中ヲ掠め領ス」(巻第十六)、とある。
奈義能山も菩提寺もともに勝田郡奈義町にある。また、美作の武士のある者は、赤松円心のもとにはせ参じて、彼の拠点である白旗城にこもり、天皇方に敵対した。白旗城は播磨国赤穂郡(あこうぐん)上郡(かみごおり)赤松にあり、この城を攻撃した新田義貞の軍勢に対して、「此城四万皆険阻ニシテ、人ノ上ルベキ様モナク、水モ兵糧モ卓散ナル上、播磨・美作ニ名ヲ得タル射手共、八百余人迄籠リタリケル間」(『太平記』巻十六)、という状態であった。
この風雲急を告げる事態に対して、後醍醐方軍勢による反撃が行われる。新田義貞は、江田兵部大舗行義(えだひょうぶたいふゆきよし)を大将として二〇〇〇余騎を杉坂峠に向かわせた。「是ハ菅家・南三郷ノ者共ガ堅メタル所ヲ追破テ、美作ヘ入ン為也。」と『太平記』(巻十六)にある。美作東部の武士だけでなく、美作西部でも南三郷(栗原・鹿田(かつた)・垂水(たるみ)の武士は武家方へついている。こうして、江田行義は美作に討ち入り、奈義能山・菩提寺の諸城を攻略した。城は落ち、菅家の武士たちは、馬・武具を棄てて城に連なる山の上に逃亡した(『太平記』巻十六)。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第二巻、中世、津山市役所、1977)
新田勢はこの追撃でこれら3国を手中にした。北畠顕家に敗れて九州に逃げ延びていた足利勢に対し、追討の新田勢がじりじりと近づいていた時、この西進を阻んだのが赤松則村であった。尊氏が勢力を持ち直し、挽回をねらって中国路へと進んでくる段にあっては、その則村が新田の西進を妨げたのであった。やむなく、新田勢は福山城に大井田氏経(おおいだうじつね)に置き、西から京都に向け上がってくる足利勢への守りとした。しかし、九州で勢力を盛り返した足利側の軍勢は山陽道をひたひたと進んでいく。
そして迎えた1335年(建武3年)の春、同城での両者の決戦が行われ、その城が陥落した。こうなると、足利氏に味方する勢力はどんどん膨れ上がっていき、備前の三石城、美作の菩提寺城など、新田側の防衛拠点は次々と破られていった。その仕上げが、播磨の国湊川の合戦であり、ここで楠正茂らも加わっての新政府側軍勢の奮闘もあったものの、赤松勢の分銅もあって勝敗の帰趨はもはや明らかであった。
室町幕府ができても、政治情勢には盤石というものがまるでなかった。初代将軍の尊氏の息子ながら、父親の尊氏から疎外されていた足利直冬(あしかがなおふゆ)は、養父として自分を慈しんでくれた足利直義(あしかがなおよし)の仇打ちのためにも上洛を考える。中国地方でも周防(すぼう)と長門(ながと)の国に勢力を張る大内氏、山陰地方に勢力を張る山名氏が直冬を奉じて戦うと、直冬に申し出てくる。そしてこの頃の中国地方での直冬党には、美作の多くの武士が加勢に駆けつけている。1352年の秋、山名時氏が直冬党に属して、幕府に反旗を掲げる。彼は、前年の初めに直義の方についていて、幕府から丹波、若狭の守護職を没収されていたので、その回復を図る行動を含む。山名氏の根拠地は山陰にもあり、1352年の冬から翌1353年の春にかけて、山陰から中国山地を越え、美作そして備前に攻め込む。これを抑えるため、幕府からは、美作守護に任じられた赤松貞範などが応戦する。この段階で、赤松ら幕府勢は、美作東部を幕府方の支配下に組み入れることに成功したのに対し、山名を主力とする中国地方の直冬党は、加茂川以西を勢力下に置いて、相手側とにらみ合う構図となっている。
幕府と直冬党の国を二分しての戦いは、その後も続いていく。今度の直冬は、降着状態の戦況打開のため、大博打を打つことにする。南朝に降伏して、足利尊氏討伐の綸旨を得たのだ。こうしておいてから、彼の直冬の軍勢は、1354年(文和3年)、山陽と山陰からの大軍を加えて京都へ向かう。これには、直義派の桃井直常(もものいただつね)や南朝の楠木正儀らも呼応して立ち上がる。幕府方も、これらを迎え撃つべく出撃する。1355年(文和4年)、二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)が敵主力と目された直冬軍に備えるため播磨に出陣した隙をついて、直冬側についていた桃井直常ら北陸勢が手薄になった京都に侵入してくる。留守を守っていた尊氏はあわてて後光厳天皇を奉じて近江武佐寺に脱出していく。一方、義詮が率いる幕府軍主力は播磨に孤立していて動けない。直冬の軍勢は、そんな義詮軍にはあえて挑まず別ルートを通って意気揚々と京都に入る。ところが、正月早早の桃井軍入京から一月もしないうちに、摂津神南の合戦で直冬軍は義詮に大敗を喫す。近江の尊氏軍も京都六条に進出し、直冬軍とほぼ2か月にわたり激しい市街戦を演じるうち、さしもの直冬軍も衆寡敵せず、散り散りになって命からがら京の都を脱出するのである。
そして1358年(正平13年、延文3年)に尊氏が死ぬと、それからは、南朝勢力は幕府の度重なる攻勢の前にしだいにジリ貧になっていく。1360年(延文5年)、中国地方での幕府と直冬党の代理戦争の戦いが、山名らと赤松らによって繰り広げられていく。両軍、攻めたり攻められたり、失地を奪還したり又失ったりで双方入り乱れて戦ったようである。その結果、1362年(康安2年)夏には、山名が幕府勢に競り勝って美作の中心地である院庄に入り、そこからは備前と備中へも兵を進めるに至る。ここに山名氏は、従前からの伯耆、因幡に加え、美作、出雲そして隠岐を完全に掌握するとともに、石見、備中、備前、そして但馬(たじま)にも支配権を確立するに至ってゆく。美作が北朝の勢力下に入ったことを覗わせる仏門夫婦の供養塔が「新野保」(新野郷変じて、現在の津山市新野東)にあり、それには「康永2年」と北朝方の元号が刻まれている(勝北町編集「勝北町誌」)。
(続く)
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30『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(交通など)
さて、幕府が江戸に移されてからのこの三国であるが、政治向きの関心は上方と江戸間に移った。とはいえ、『大日本五道中屏風図』にもあるように、江戸の「五街道」(東海道、中山道、甲州街道、日光街道及び奥州街道の五つが道路奉行の管轄下におかれた))の一つとして、経済的にはなお大きな役割を果たしていく。その道筋としては、大坂より出でて、明石付近で畿内と別れて播磨へ立ち入り、それから瀬戸内海沿いを備前、備中を通過し、福山、尾道へ、そこからさらに西に向かって進み、三原、下関へと至る。
明治に入ると、1891年(明治24年)3月18日に山陽鉄道が岡山まで開通する。それからは、この鉄道と幹線道路を使って、飛躍的に交通と運輸が伸びていく。東海道新幹線に続き、山陽新幹線が開通すると、岡山駅は山陽路の玄関にもなっていく。そういう意味では、この岡山、倉敷を起点とする交通網が、現在の岡山県を他地域と結んでいる主要な道筋であるというのは頷ける。
しかし、今日の岡山県の中部と北部、とくに美作は小高い山や峠が続く。昔から交通網の整備は緩慢にしか進んでこなかった。そのため、物資の流通にはいろいろな制約がつきまとっていたのは否めない。そんな美作の人々が代々描く夢、その大きな願い事こそ、美作を発着する鉄道を初め、交通網の整備であった。ここでは、近世における美作の地理を出発点にして、それからの交通網の発達を考えてみたい。その当時の美作周辺の主要道路と宿駅を、『岡山県史近世2』が伝えている、それにはめ込まれている図によると、美作の中心地である津山(つやま)に入ったり、そこから出て主要な目的地に向かうには、大まかに次の六つの路があったのではないか。
その一つ目の道は、姫路を出発して、出雲街道(いずもかいどう)を概ね西へとたどって津山へと到る。大和に朝廷が置かれてからは、通常の行き来にはこの道が使われた。また、江戸時代においては、西国諸大名の江戸への参勤交代のルートでもあった。といっても、この道は、東海道や中山道のように数々の歌に詠まれているのに比べ、やや寂しく、取り立てて雅(みやび)な気持ちになる訳でもあるまい。美作との往来の二つ目は、備前から美作へと旭川沿いを北上したり、その逆に南下したりする道である。
美作と繋がる三つめの往来は、備前から吉井川沿いを北へたどり、又は美作からこの吉井川を南下りする。江戸期までは、これを「西大寺道」と呼んでいた。四つ目の道としては、出雲を出発して、津山へ至る、もしくはその逆の道である。美作とをつなぐ五つ目の道は、因幡(鳥取)とつなぐ道である。この道は、江戸期までは「因幡道(往来)」又は「鳥取街道」と呼ばれてきた。この往来が開かれたのは、遠く平安期に遡る。江戸期に入ってから整備され、鳥取藩の参勤交代の航路にも用いられた。もともとの全体の行程は、姫路から鳥取までであり、14の宿がつないでいた。さらにに津山とをつなぐ六つめの道としては、津山城下町からそのまま北上して倉吉方面へ向かう道などが通っていたのではないだろうか。
(続く)
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17『岡山(美作・備前・備中)の今昔』律令国家の成立前後から平安時代の吉備
6世紀末ないしは7世紀初頭になると、日本列島の首長たちは前方後円墳に一斉に決別し、方墳や円墳を築くようになる。きっかけは、有力豪族の蘇我氏が中国から方墳を持ち込んだともいわれるが、確かなところはわかっていない。政治的な背景として、蘇我氏が大層のさばって来て、天皇家にたてつこうとしてきたことを挙げる向きもあるが、果たしてどこまでが本当なのだろうか。7世紀の早早の造営も伝わるところから、最近の日本考古学では、これまでこの時代も含めて後期古墳時代と呼んでいたものを、前方後円墳の終焉の時期をもって古墳時代の後期と終末期とに細区分する考えが出されているとのことだ。
律令国家となってからは、備前岡山や備中倉敷を通る山陽道は、この国最大の幹線として知られる。江戸期になるまでは、九州の太宰府と京の都をつなげ、大陸からの文化がこの国に入ってくる際の主たる通り道であった。そこで、これら3つの地域割になってから江戸時代に入る前までの、この地域の歴史を簡単にたどってみよう。
まず美作の名の由来は、これまで、初めの「み(美)」と「ま(真)」は美称であり、その後の「さか(坂)」が加わることで「坂のある国」と言われてきた。他にも、「キカラ(大加羅)がキカラ→ミカラ→ミカ→ミマと変わったミマに、サキ(城)の転訛サカがついの国名だ」とするか、「水間坂」という地形にちなんだ呼び名としたり、「うまさか」(味酒)にことかけて良い酒の産地とするなど、多様な説が出されている。この地が北から時計まわりに、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)、播磨(はりま)、そして備前(びぜん)及び備中(びっちゅう)に囲まれた「海なき地」であることを考えると、どの名が一番しっくりいくのだろうか。
『続日本記』(しょくにほんぎ)の713年(和銅6年)4月乙未条の処には、吉備国が三分割された後の同年、備前の国の英多(あいだ)・勝田(かつた)・苫田(とまだ)・久米(くめ)・大庭(おおにわ)・真島(まじま)の北部6郡を割いて美作の国府が置かれたことが記してあり、これが「美作国」(国の等級は「上国」)の始まりとされる。これは、2014年(平成26年)夏現在の岡山県北部10市町村、すなわち津山市、真庭市、美作市、新庄村、鏡野町、勝田郡勝央町、勝田郡奈義町、西粟倉村、久米南町、美咲町)の地域とほぼ重なる。みまさかの「建国」は、壬申(じんしん)の乱のあった672年(弘文2年)から数えて41年後のことである。
この決定に基づき、同年の713年(和銅6年)中には、大和朝廷の命を受け、上毛野堅身(かみつけぬのかたみ)が苫東郡(今日の津山市総社(そうじゃ))の地に国司として赴任してくる。彼は地方豪族を郡司(ぐんじ)に任命して、統治の基盤を整えていった。天智天皇の死後の熾烈な権力闘争を勝ち抜いた天武政権にとっては、壬申の乱(じんしんのらん)において大海人皇子(おおあまのおうじ)側の友党とはいえ、瀬戸内海側でなお往年の勢力を保っている吉備氏(きびし)を牽制する必要があったのだろう。
美作、備前、備中なども、その戦略の中に確実に組み込まれていく。
728年(神亀5年)4月、美作国の大庭郡、真嶋郡の二郡から行われた太政官への奏上及びその許可の記述が『続日本記』(しょくにほんぎ)に残っている。それによると、年間の庸米860石余を都まで運ぶのは難儀であるとして、重量のある米に代わる綿、鉄は軽いものに換えて納税させてほしいとの奏上をした結果、太政官の許しをもらえたことになっている。また、この時代の土中から木簡から美作のものが発見されている。天平一八年(746年)の年号で「美作国勝田郡新野郷庸米六斗」と、また延暦三年(784年)の年号で「美作国勝田郡加茂郷米五斗」と墨で書かれているのであって、これが勝北町(現在は津山市)内の加茂郷、新野郷として貢納地を指し示していることは明らかである。
ここにいう美作には、奈良期(710~784年)から平安期(794年(延暦13年)~1191年)にかけて、概ね全7郡65郷があった。その内訳は、英多郡(12)、勝田郡(14)、苫東郡(8)、苫西郡(7)、久米郡(7)、大庭郡(6)、真島郡(10)となっていた。これらのうち苫東郡と苫西郡の2つは、平安年間の863年(貞観5年)に、それまでの苫田郡を二つに分けたものである。ここに勝田郡の郡府(現在の勝間田に在)に属していたのは、勝田郷、吉野郷、植月郷、鷹取郷、和気郷、加美郷、飯岡郷、塩湯郷、広岡郷、豊国郷、新野郷、加茂郷、広野郷及び河辺郷の14郷であった。
その65郷のひとつに、勝田郡内の新野郷があり、その頃には封建的な農村共同体が村と単位で、家族レベルでは家父長制が成熟していたであろう。新野郷の地理的な中心は、市場のあたりで、地内の北東から南西に向かって吉井川支流の一つ、広戸川が流れている。新野郷に属するとしては、南西の方角から進んできて、西下、西中及び日本原、山形、西上と北上していく。全国には「新野」(にいの)という地名がところどころある(例えば、天竜川上流)。新野については、奈良時代にはやくも足跡が記されている。「美作三野」の中でも広野や高野よりも後に開墾された。その名のとおり、高野方面から進出していった人々が新たに開墾した土地という謂われがある。
9世紀に入ってからの美作については、『古今和歌集』」第20巻の「御神遊びのうた」の中に、つぎの歌が編纂されている。
「美作や 久米の佐良山 さらさらに わが名はたてじ よろずよまでにや」
ここに「わが名はたてじ」とは随分とへりくだったものだ。清和天皇の即位式・大嘗祭(おおにえのまつり、在位は858年(天安2年)から876年(貞観18年)までとされる)をとりおこなったときに献上した和歌とされる。この頃になると、天皇家や貴族などの特権階級を頂点として、その下に勤労階級の人民を置き、下からの税や労役などに依って彼ら上層の人々の栄華な生活を賄うという、中国の唐(タン)王朝にも似た階級社会の構造が、奈良・飛鳥の時を経て定まったといえる。
(続く)
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(5の2)『美作の野は晴れて』第一部、化石探検など
今、美作の中心地、今日の津山市街地から見て、その北東部には、神南備山(かんなびさん)、鳥山(とりやま)とある。そして、その北方の深いところには、日本のアルプスほどの威容ではないものの、中国山地の山々がある。その山々とは、山形仙(やまがたせん)、広戸仙(ひろどせん、三角点は爪ヶ城(つめがしろ、地元では「広戸仙」と呼んでいる)、滝山(たきやま)、そして那岐山(なぎさん)へと続く700~1200メートル級の山のことである。その山並みの全体が「那岐連山」もしくは「横仙」と称され、かなりの高さで屏風のように続いている。天気のよい頃であるならば、その那岐山の頂上に登って北を見下ろすと、そこは「山陰」であり、因幡の国、現在の鳥取県なのである。
あれは、小学校の4学年くらいになってからの旅だったろうか。主観的には、心が浮き浮きしての遠足というよりは、心身ともになかなかに厳しい登山のようなものであった。私たちは先生方の引率で標高794メートルの山形仙に初めて頂上に登った。体育の時間ということではなし、さりとて遠足というのでもなく、それでいてそこそこの緊張感があり、ぼれば、児童たちに某かの達成感を与えてやることができる。このあたりが校長先生を初め、当時の先生方の粋な計らいであったといって良(い)い。つたない記憶によると、そのときは、引率の先生が何人もおられたので、たぶん一学年うち揃っての登山であったのだろう。稜線の尾根に到達してから、頂上のある尾根に続くなだらかな坂を進んでいったところに、頂上はあった。遙かに、東方の中国山系の稜線が連なっているのが見えた。その眼下に美作の大地が広がっていた。鳥取との県境に向かう稜線に沿って眼を移していくと、かなり向こうまで見渡せる、那岐山麓が「氷の山後山那岐山(ひょうのさんあとやまなぎさん)国定公園」の指定を受けているのが頷ける眺めであった。
次の記憶にあるのは、小学校の中学年くらいの事であったろうか。4月に入ると、空気の暖かさが増してくる。朝から天気のいい日には、そんな春の日差しを受けて、子供たちの活動範囲はぐんぐんと広がっていく。その日は、学校が休みの日であったようで、の仲間で連れだっていたようだ。今顧みると、学校での理科の時間は窮屈であっても、遊びの中で自然の営みには連鎖があることを学べる。その中に、「化石探検」の遊びがあった。それは、西下での子どもの遊びに組み込まれていたのではなく、おそらくは誰かがどこかからかぎつけてくるなりして、「あそこに面白いものがあるそうな」ということであったらしい。
そんなことで、今までに経験したことがないような、わくわく気分を抱いていた。向かった場所は、西下内のほぼ真ん中あたり、平井地区と流尾地区の境にある、ゆるやかな傾斜のある町道にさしかかる。すると、道から直ぐのところに、平坂ブロック工業(仮の名、コンクリート製品の製造業)の建物があって、その裏手に廻ると、そこは山肌がきれいに削り取られていた。この会社では、コンクリートブロックとか土管の類なんかを作ったり、置いたりするのに広い場所が必要となるからだ。崖の高さは五メートルくらいはあるのではないか。それはかの恐竜王国の福井の「恐竜の壁」ほどの深く切り立った場所ではない。とはいえ、小さいながらも「屏風」のように地面からせり立っている。どんな地層かはわからないが、何かがそこにあるというのが、村の子どもたちの間で話題になっていたに違いない。三兄弟のお兄さんのに頼むと、子供会やFOS(フォス)少年団の活動で日頃から顔馴染みなので、二つ返事で「いいよ」と言ってもらい、仕事が終わっているとき、暫しの間、そこで化石採集をさせてもらう。
採取した化石の一かけらを掌に載せて、観察していると何かが見えてくる。今振り返ると、記憶半分、後は想像で、こんなやりとりが聞こえてくる。
「なんじゃろうか」
もう一つの顔が覗き込んでくると、
「シダか、楓でのようじゃなあ」
二人の頭がすり寄るようにしてくっついた。
あちらでは、今度は別のものが見つかったらしい。
二人がそちらに歩いて行くと、
「これを見てみな、なんとか貝じゃあないの(ではないのか)」
これを掘り出したらしい良介(仮の名)君が訊いてきた。
「うーん・・・・・」
今度は何か生き物のようだ。でも、わからない。
「あんたら、三人で何しよるん」
すかさず紅一点で姉さん気取りの道子(仮の名)さんがこちらに寄ってきて、良介君の掌をのぞき込む。
「良介君、あんたら知らんの?これはホタテ貝か何かの仲間じゃないの。はっきりは言えんけど。何千年も前の貝なんじゃと本に出とったのと似とるみたい」
少年たちは、「ふーん」と頷いた。その好奇心と「そんなのが本当にここにあるんか」疑問は、おそらく今も昔も変わっていない。
濃い灰色の小さな化石の埋め込まれた泥岩は、少し力を入れて握ると、私の掌の中でボロッボロッと壊れた。
「ああ、いけん・・・・・壊してしもうた。ごめんな」
「もろくなっとるみたいじゃな」
道子さんがしんみりとした表情を浮かべて言った
「大昔は海だったんかなあ、ここは」と私が呟いていると、
「さあなあ・・・・・、僕にはわからん、そん時は人間はおらんじゃったしなあ・・・」
と言って、健一(仮の名)君が自信がなさそうに首を横に振る。
「そうかあ・・・・・」
私は、一瞬であったが、人間がいなかった時代のある光景がふっと目の前に浮かんで見えた気がした。
「昔はこの辺は津山海という海じゃった(だった)と、先生が理科の時間にいうとんさったで(言っておられたよ)」
一番年上の勇二(仮の名)さんが誇らしげに言うと、道子さんも顔を輝かせて言う。
「そうなんよ。あんたらも誰かから一遍位は聞いたこともあるじゃろう?」
「ふうーん。そうなんかあ」、「そうじゃった、そうじゃった」と、他の皆で相づちを打つ。
なるほどなあ、女の人はよく勉強しとると感心したものだ。
「そういえば、吉井川の河原でくじらの化石が見つかったそうじゃ(そうだ)。あそこが昔海なら、この辺りだって昔は海じゃな」
その当時、「津山海」のことはほとんど知らなかった。例えば、津山から出土している化石に「ピカリア」がある。大きいものは8センチメートルもあって、新第三紀中新世中期初頭(約1600万~1500万年前)の海を泳ぎ回っていた。そのピカリアは現生ののセンニンガイの仲間にして、今の日本で言うと「西表島(にしおもてじま)などの亜熱帯地域の河口や、干潟のマングローブ域で見られる」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)とのことである。
私が小学校を卒業するまでの在学中にも、大人の学友などから話題にされたり、示唆を与えられたりしたことがあったのかどうか、どうしても思い出せない。ちなみに、この海の範囲は瀬戸内海の方から北の地域(新見地域も含め)の広範囲に渡っていようなので、「津山海」という呼び名ではふさわしくない気もする(1989年刊の美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(1)」の末尾に「約二千年まえの陸地と海のようす」として描かれている)。
地元の地域がどのように変遷してきたかは、実地に行ってちゃんと見聞していかないと、わからない。地質学には縁遠い生活をしていたのが改まったのは、多分、小学校も高学年になってからだろうか、津山市内の科学教育博物館に遠足か何かで訪れた時ではないかというのが、曖昧な記憶となって残っている。そこに行った目的としては、プラネタニウムを観せてもらうことと、それとは別の部屋にある、博物館の色々な展示を見て回ったように想い出している。あれから数十年を経過して、今では、何から何まで、確かな記憶はとうに失われてしまっているため、自信をもって言えないものの、そのとき、「津山海」についても何かの説明があったのではないだろうか。
その後も、「津山海」については、ほとんど何も知識なり経験なりが進展することなく過ごしていたのが、突然のことで戸惑ったのは、中学生活を通り過ぎて、工業高専に通い始めた、ある日のことであった。それというのは、学校からの自転車を踏んでの帰り道、
ふとしたことから、ほんの少しだが通学路をそれて、いつもと違う方向に分け入ったことがある。それが、私なりの「津山海」を実感した、初めての経験であった、と言って良い。季節と時間としては、秋深い、美作の山々に西日さす午後であったように想い出される。その場所というのは、津山市茶屋林で道を左に折れ北へ少し行った辺りで、まるで画面のように我が目の前に、西部劇に出てくるかのように茜色に染まっている荒野が広がっているではないか。驚きは、直ぐに感動に昇華していった。どのくらいそこにいたのであろうか、多分5分位の間はその場に座り込んで、西の方角に見えるのは大パノラマ、広大な眺めであったのをはっきりと覚えているのは、その日を境に頭の中に美作の古代の大地が自分流に焼き付いたからなのだろう。
そればかりではない。日本原の塩手池からはウニ、サンゴ、カキなどの生物のほか、私たち日本人には馴染みのブナやクヌギ、柳、珍しいものではメタセコイアなどの植物の葉の化石が見つかっている。彼らはそこでどのくらい命をつないでいったのだろう。次々と姿を変えて種として生き延びていったのだとすれば、その痕跡も化石の中にどれくらいか読み取れるのだろうか。
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