『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻四の四 細川兵部大輔、将軍のご落胤かもしれぬこと

2020-05-31 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2015年の再掲です>

巻四の四 細川兵部大輔、将軍のご落胤かもしれぬ
こと。

 引き続き堂洞取手攻めの本陣で、大汗をぬぐい

ながら長秀が信長に、『細川兵部大輔藤孝』の

生まれ育ちについて報告する。


*天文三年(一五三四)生れということは、偶然

にも信長と同い年である。

*当時の和泉半国上守護家の細川元有には元常・

晴員(はるかず)の兄弟がおり、当然兄の元常が

本家を継ぐことになる。丁度元有の嫁の実家三淵

家で当主晴恒に後継ぎが出来なかったこともあり、

弟の晴員は三淵晴恒の養子となり、『三淵晴員』

となった。ところが本家の細川元常に後継ぎが

出来なかったため、三淵晴員と清原宣賢の女

(むすめ)の間にできていた『藤孝』が、天文

九年(一五四〇)戻り養子として元常の養子と

なり、和泉半国上守護家の後継ぎとなったという

次第であった。無邪気な六~七歳の子供に与え

られた最初の試練であった。


「それならば同じ氏姓を繋ぐためにいつ・どこ

でもやられていることであろう。兵部大輔殿には

秘められた過去があるのではないか?」

「うむ、その通り。さすが三郎察しが早い。」


*ところが藤孝の母(清原宣賢の女)が出産した

のが足利十二代将軍義晴から暇を出された直後で

あったため、京雀の間では「三淵家の若様は将軍

の落とし胤なのでは?」という噂が飛び交って

いた。

*その後の人生を見ても、天文二十一年(一五五

二)数えの十九歳で従五位下兵部大輔に任ぜられ

たり、その二年後に義父元常の死により和泉半国

上守護家の家督を継いだり、永禄六年(一五六三)

三十歳で幕府御供衆に列せられたり・・・。とても

皇家・将軍家と関係なしで上れる地位ではなく

「何かの事情がある」という京雀の見方はますます

強くなったのであった。


「ということで、京雀は『将軍のご落胤につき華々

しく昇進している』とみているようでございます!」

「なるほど・・して当人は?」

「肯定も否定もせず、京都周りの取締りで力を蓄え、

皇家・将軍家を下支えしてきた様子にございます。」

「軍勢持たぬが金はある・・か。五郎左よ、今後も

和田兄弟と細川兵部大輔殿とは上手に力を合わせる

ように頼む!」

「御意!」


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