<初出:2015年の再掲です>
巻四の四 細川兵部大輔、将軍のご落胤かもしれぬ
こと。
引き続き堂洞取手攻めの本陣で、大汗をぬぐい
ながら長秀が信長に、『細川兵部大輔藤孝』の
生まれ育ちについて報告する。
*天文三年(一五三四)生れということは、偶然
にも信長と同い年である。
*当時の和泉半国上守護家の細川元有には元常・
晴員(はるかず)の兄弟がおり、当然兄の元常が
本家を継ぐことになる。丁度元有の嫁の実家三淵
家で当主晴恒に後継ぎが出来なかったこともあり、
弟の晴員は三淵晴恒の養子となり、『三淵晴員』
となった。ところが本家の細川元常に後継ぎが
出来なかったため、三淵晴員と清原宣賢の女
(むすめ)の間にできていた『藤孝』が、天文
九年(一五四〇)戻り養子として元常の養子と
なり、和泉半国上守護家の後継ぎとなったという
次第であった。無邪気な六~七歳の子供に与え
られた最初の試練であった。
「それならば同じ氏姓を繋ぐためにいつ・どこ
でもやられていることであろう。兵部大輔殿には
秘められた過去があるのではないか?」
「うむ、その通り。さすが三郎察しが早い。」
*ところが藤孝の母(清原宣賢の女)が出産した
のが足利十二代将軍義晴から暇を出された直後で
あったため、京雀の間では「三淵家の若様は将軍
の落とし胤なのでは?」という噂が飛び交って
いた。
*その後の人生を見ても、天文二十一年(一五五
二)数えの十九歳で従五位下兵部大輔に任ぜられ
たり、その二年後に義父元常の死により和泉半国
上守護家の家督を継いだり、永禄六年(一五六三)
三十歳で幕府御供衆に列せられたり・・・。とても
皇家・将軍家と関係なしで上れる地位ではなく
「何かの事情がある」という京雀の見方はますます
強くなったのであった。
「ということで、京雀は『将軍のご落胤につき華々
しく昇進している』とみているようでございます!」
「なるほど・・して当人は?」
「肯定も否定もせず、京都周りの取締りで力を蓄え、
皇家・将軍家を下支えしてきた様子にございます。」
「軍勢持たぬが金はある・・か。五郎左よ、今後も
和田兄弟と細川兵部大輔殿とは上手に力を合わせる
ように頼む!」
「御意!」
巻四の四 細川兵部大輔、将軍のご落胤かもしれぬ
こと。
引き続き堂洞取手攻めの本陣で、大汗をぬぐい
ながら長秀が信長に、『細川兵部大輔藤孝』の
生まれ育ちについて報告する。
*天文三年(一五三四)生れということは、偶然
にも信長と同い年である。
*当時の和泉半国上守護家の細川元有には元常・
晴員(はるかず)の兄弟がおり、当然兄の元常が
本家を継ぐことになる。丁度元有の嫁の実家三淵
家で当主晴恒に後継ぎが出来なかったこともあり、
弟の晴員は三淵晴恒の養子となり、『三淵晴員』
となった。ところが本家の細川元常に後継ぎが
出来なかったため、三淵晴員と清原宣賢の女
(むすめ)の間にできていた『藤孝』が、天文
九年(一五四〇)戻り養子として元常の養子と
なり、和泉半国上守護家の後継ぎとなったという
次第であった。無邪気な六~七歳の子供に与え
られた最初の試練であった。
「それならば同じ氏姓を繋ぐためにいつ・どこ
でもやられていることであろう。兵部大輔殿には
秘められた過去があるのではないか?」
「うむ、その通り。さすが三郎察しが早い。」
*ところが藤孝の母(清原宣賢の女)が出産した
のが足利十二代将軍義晴から暇を出された直後で
あったため、京雀の間では「三淵家の若様は将軍
の落とし胤なのでは?」という噂が飛び交って
いた。
*その後の人生を見ても、天文二十一年(一五五
二)数えの十九歳で従五位下兵部大輔に任ぜられ
たり、その二年後に義父元常の死により和泉半国
上守護家の家督を継いだり、永禄六年(一五六三)
三十歳で幕府御供衆に列せられたり・・・。とても
皇家・将軍家と関係なしで上れる地位ではなく
「何かの事情がある」という京雀の見方はますます
強くなったのであった。
「ということで、京雀は『将軍のご落胤につき華々
しく昇進している』とみているようでございます!」
「なるほど・・して当人は?」
「肯定も否定もせず、京都周りの取締りで力を蓄え、
皇家・将軍家を下支えしてきた様子にございます。」
「軍勢持たぬが金はある・・か。五郎左よ、今後も
和田兄弟と細川兵部大輔殿とは上手に力を合わせる
ように頼む!」
「御意!」