<初出:2016年の再掲です>
巻四の九 信長、手順前後のために命を失い
かけること
永禄九年(一五六六)九月上旬、信長は
何もしないで清洲城北やぐらに居る。何も
していないというか、泥だらけ・総崩れの
撤退戦で危ういところで命が助かったばかり
であったので心があらためて動き始める
までの待機状態ともいえる。信長はこの
数日気が付けば「何故このような手順前後
が起きたのか・・」とつぶやいている。
事前に近江で足利義秋をかくまっている
和田伊賀守惟政と細川兵部大輔藤孝に
依頼しておいた通り、「足利の名を継ぐ
義秋として美濃の斎藤軍と尾張の織田軍
に講和を命ずる」手はずが整っていた。
ただし、一つ目の手違いがあり、実は義秋
側では「両陣営の講和が成った場合信長
が義秋を迎えに行き将軍として上洛させる」
目論見を立てていたのだが、和田伊賀守
も失念したのか信長側にこのことを連絡
できておらず、したがって信長側は美濃
と尾張の講和までしか物語をしらない。
もう一つの手違いは、美濃の斎藤竜興の
所にも講和の話が伝えられ「講和も致し方
なし」と覚悟を決めていたところであった
のに、何故かわからないが「義秋は講和
の後で完全に信長を担ぐ気でいる」と伝わっ
てしまったのであった。
事情を知らない信長一行は、和田方から
連絡を受けた八月下旬に講和の前の参会
のために木曽川を渡り河野島に陣を取る。
ただ講和のための参会にしては斎藤軍は
あまりにも実戦武装を固めており、信長
以下「これはなにかおかしい。講和の参会
のための装束ではない。一度引き返した
方がよい」と全員一致で撤退することを
決めた。ところが季節柄、ものすごい
暴風雨に巻き込まれて木曽川・境川とも
に水が出て両軍立ち往生してしまう異常
事態となってしまった。信長の頭に不安
がよぎる。父信秀も美濃侵攻から撤退する
時に当時の斎藤山城守(道三)から痛い
目にあわされているし、「これでわが命
が終わるのか・・」と覚悟を決めていた。
予想通り「撤退は明朝から」と決めていた
前日の夕刻、撤退準備中の陣へ美濃軍が
攻め込んできた。不意を突かれた信長軍
は這う這うの体で木曽川を渡り撤退いや
逃げ延びたのであった。泥だらけの姿で
清州に戻る途中、近江方面から「足利
義秋が『準備万端整えてやったのに信長
は手はず通りに動かなかった!』と謗って
いる!」との噂話が飛び込んでくる。ことの
是非を調べる必要はあるが、死にそうな
目に合った上に信長の面目丸つぶれである。
実は足利義秋らは頼りにした佐々木六角
義賢から支援を断られ、丁度信長が河野島
に入ったその日に近江八島を脱出しており、
連絡の訂正が互いに取れなかったという
次第であった。
信長は基本はのんびりした性格であるが
一度受けた仕打ちは絶対忘れず報復する
執念深さを持っている。
「おい、藤吉郎はおるか?」
「ははっ、ここにて!」
「信玄殿と打ち合わせた木曽川上流の商い
はどのようになっておる?」
「ははっ、先方の申し出どおり『過書
(=勘過状)』の費用をきちんと払い始めた
ところ、材木から金から当方の望むものは
何でも提供して頂いております。」
「なるほど、さすればこういうことは可能
かのう・・」
といい、内緒話のように藤吉郎に耳打ちする。
信長は話し終わると「ぷっ」と吹いて笑い
始めるし上様との話のはずなのに藤吉郎も
にやにやし始める。
「御意、さっそくとりかかりましょう!」
永禄九年(一五六六)九月五日、木下藤吉郎
が主体となり、信長軍は飛騨川北方の渡し
から水路を下り洲俣に入り、一五六一年以来
久々に、洲俣城を柵を廻し造営した。竜興軍
の妨害を三千名で阻止し城を造営し保持する
ことに成功した。世にいう「藤吉郎の一夜城」
である。斎藤竜興の家臣たちもこの洲俣城
再構築を見てほぼ戦意を喪失したものと
思われる。なぜなら、木曽川の水運だけで
なく飛騨川・長良川まで信長の管理下に
入ってしまったことを示す出来事であった
からである。九月二十五日には藤吉郎から
信長へ飛報が届く。信長は今回の大洪水
で収穫直前の稲が各所で流されてしまった
と推定し、松井有閑に保管していた昨年
の米を高値で売る準備を命ずる。しばらく
は近江八島から追い出された足利義秋一行
については、先方から知らせがない限り
動かないと決めた。
巻四の九 信長、手順前後のために命を失い
かけること
永禄九年(一五六六)九月上旬、信長は
何もしないで清洲城北やぐらに居る。何も
していないというか、泥だらけ・総崩れの
撤退戦で危ういところで命が助かったばかり
であったので心があらためて動き始める
までの待機状態ともいえる。信長はこの
数日気が付けば「何故このような手順前後
が起きたのか・・」とつぶやいている。
事前に近江で足利義秋をかくまっている
和田伊賀守惟政と細川兵部大輔藤孝に
依頼しておいた通り、「足利の名を継ぐ
義秋として美濃の斎藤軍と尾張の織田軍
に講和を命ずる」手はずが整っていた。
ただし、一つ目の手違いがあり、実は義秋
側では「両陣営の講和が成った場合信長
が義秋を迎えに行き将軍として上洛させる」
目論見を立てていたのだが、和田伊賀守
も失念したのか信長側にこのことを連絡
できておらず、したがって信長側は美濃
と尾張の講和までしか物語をしらない。
もう一つの手違いは、美濃の斎藤竜興の
所にも講和の話が伝えられ「講和も致し方
なし」と覚悟を決めていたところであった
のに、何故かわからないが「義秋は講和
の後で完全に信長を担ぐ気でいる」と伝わっ
てしまったのであった。
事情を知らない信長一行は、和田方から
連絡を受けた八月下旬に講和の前の参会
のために木曽川を渡り河野島に陣を取る。
ただ講和のための参会にしては斎藤軍は
あまりにも実戦武装を固めており、信長
以下「これはなにかおかしい。講和の参会
のための装束ではない。一度引き返した
方がよい」と全員一致で撤退することを
決めた。ところが季節柄、ものすごい
暴風雨に巻き込まれて木曽川・境川とも
に水が出て両軍立ち往生してしまう異常
事態となってしまった。信長の頭に不安
がよぎる。父信秀も美濃侵攻から撤退する
時に当時の斎藤山城守(道三)から痛い
目にあわされているし、「これでわが命
が終わるのか・・」と覚悟を決めていた。
予想通り「撤退は明朝から」と決めていた
前日の夕刻、撤退準備中の陣へ美濃軍が
攻め込んできた。不意を突かれた信長軍
は這う這うの体で木曽川を渡り撤退いや
逃げ延びたのであった。泥だらけの姿で
清州に戻る途中、近江方面から「足利
義秋が『準備万端整えてやったのに信長
は手はず通りに動かなかった!』と謗って
いる!」との噂話が飛び込んでくる。ことの
是非を調べる必要はあるが、死にそうな
目に合った上に信長の面目丸つぶれである。
実は足利義秋らは頼りにした佐々木六角
義賢から支援を断られ、丁度信長が河野島
に入ったその日に近江八島を脱出しており、
連絡の訂正が互いに取れなかったという
次第であった。
信長は基本はのんびりした性格であるが
一度受けた仕打ちは絶対忘れず報復する
執念深さを持っている。
「おい、藤吉郎はおるか?」
「ははっ、ここにて!」
「信玄殿と打ち合わせた木曽川上流の商い
はどのようになっておる?」
「ははっ、先方の申し出どおり『過書
(=勘過状)』の費用をきちんと払い始めた
ところ、材木から金から当方の望むものは
何でも提供して頂いております。」
「なるほど、さすればこういうことは可能
かのう・・」
といい、内緒話のように藤吉郎に耳打ちする。
信長は話し終わると「ぷっ」と吹いて笑い
始めるし上様との話のはずなのに藤吉郎も
にやにやし始める。
「御意、さっそくとりかかりましょう!」
永禄九年(一五六六)九月五日、木下藤吉郎
が主体となり、信長軍は飛騨川北方の渡し
から水路を下り洲俣に入り、一五六一年以来
久々に、洲俣城を柵を廻し造営した。竜興軍
の妨害を三千名で阻止し城を造営し保持する
ことに成功した。世にいう「藤吉郎の一夜城」
である。斎藤竜興の家臣たちもこの洲俣城
再構築を見てほぼ戦意を喪失したものと
思われる。なぜなら、木曽川の水運だけで
なく飛騨川・長良川まで信長の管理下に
入ってしまったことを示す出来事であった
からである。九月二十五日には藤吉郎から
信長へ飛報が届く。信長は今回の大洪水
で収穫直前の稲が各所で流されてしまった
と推定し、松井有閑に保管していた昨年
の米を高値で売る準備を命ずる。しばらく
は近江八島から追い出された足利義秋一行
については、先方から知らせがない限り
動かないと決めた。