『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

巻四の十 信長、美濃国を平定すること

2020-06-06 00:00:00 | 連続読物『いいかよく聞け、五郎左よ!』
<初出:2016年の再掲です>

巻四の十 信長、美濃国を平定すること

 永禄十年(一五六七)八月一日、美濃三人衆

(稲葉伊予守良通・氏家卜全直元・安東伊賀守

守就)が「身方に参るので人質を差し出したい」

と信長に申上する。村井民部丞貞勝・嶋田所之助

秀頼が西美濃へ受け取りに向かうが、信長は人質

も参上しないうちに軍勢を出し、井口と山続き

の瑞竜寺山へ駆け上らせ、井口の町に火をつけ

はだか城にした。これこそ織田信長・丹羽長秀・

柴田勝家の尾張の三巨頭が木下藤吉郎・松井有閑

などを用いて画策してきた「美濃国の内部崩壊」

の総仕上げである。

 実は前年の永禄九年(一五六六)九月に木下

藤吉郎が洲俣一夜城を造営し、木曽川・長良川

どちらの水運も織田方が掌握したことを美濃の兵

に見せつけた時、信長・藤吉郎の二人の発案で

尾張の兵の装束は全て三河木綿 (きわた)を

使用してきらびやかに仕立てさせていた。美濃の

兵が口をぽかんと開けてこのきらびやかな装束

を眺めていたのを現場の藤吉郎はニヤニヤして

みていた。ようするに「木曽川上流の武田信玄も、

三河を平定した松平家康も尾張の織田軍を支援

しているぞ!」という脅しである。ちなみに木綿

の供給の見返りとして、永禄九年十二月、松平

家康は従五位下三河守に任ぜられ「徳川家康」と

名乗ったのであった。すべて信長と和田伊賀守

惟政・新介定利の兄弟と細川兵部大輔藤孝の皇家・

将軍家連絡網を通じて実現されたものである。

永禄十年五月、信長の女五徳と徳川家康の嫡男

竹千代(信康)婚儀が成立した。古来日本の

婚儀は「新郎が新婦側の実家を大切にする」のが

基本であり、両家にとって願ったり叶ったりで

あった・・ように当時は思えたのだが・・

 永禄十年八月十五日、包囲された稲葉城の

敵は降参し、斎藤竜興は飛騨川経由で川内長嶋

に退散した。信長は小牧山城から美濃稲葉山城

へ移り、井口という名を「岐阜」という名に呼び

あらため、加納に楽市を設けるなど早速地域経営

に着手する。美濃国はこうして平定されたので

あった。一部の頭の固い美濃国の旧臣以外は、

「はやく信長公の経営する場所で盛んな商いを

やってみたい!」という人々ばっかりであった

ので、美濃平定後全く経済的混乱はない。九月

には一度お市との婚儀を拒否した浅井長政方から

急ぎ美濃福東城主市橋長利を介して、信長に

同盟を求めてくる。この秋の米相場は収穫期の

大雨により大暴騰し、2年前に仕込んだ古米を

計画通り藤吉郎・有閑が売りまくり、数十年に

一度と思われる莫大な利益が織田信長の元に

転がり込む。数年前は一度死にそうな目に会い、

時は淀んだように思えたが、時の流れは信長・

長秀・勝家が想像しなかった激しさでうねり

始めていた。

                巻四完


**純野のつぶやき**

以前書き溜めた読み物の再掲もこれで一段落

です。巻五は信長公が足利義秋(義昭)を担い

だ上洛戦となりますが、仕事が忙しいのでいつ

着手できるか・・ただ、当ブログの“信長から細

川藤孝への手紙”のカテゴリーにもあるとおり、

細川兵部大輔藤孝がどのようにかかわるかが

焦点になるでしょう。


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