『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

和泉衆(いずみのしゅう)

2015-12-05 14:57:48 | 信長公記の蔵:人物篇
和泉衆(いずみのしゅう)

〔現代かなづかい〕いずみのしゅう


1576年5月大坂攻めに参戦し、木津攻めの先陣

    をつとめる。

1581年2月京都の馬揃えで、蜂屋頼隆・河内衆・

    和泉衆・根来寺の大ヶ塚・佐野衆が

    馬場入り二番手をつとめる。

1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。

1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意を

    得たうえで土橋を殺害し土橋の構え

    を襲撃。信長が織田信張を大将として

    根来・和泉の衆を応援に送ったところ、

    土橋の子と根来寺の千職坊の兄弟が

    構えに立て籠もる。

1582年2月信長信濃出馬の条々書き出しの中で、

    和泉衆は紀州方面の守備を命じられる。


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