『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

石橋殿(いしばしどの

2015-12-01 13:47:51 | 信長公記の蔵:人物篇
石橋殿(いしばしどの)

〔現代かなづかい〕いしばしどの


 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


一時尾張にいたが、1560年5~6月頃吉良義昭・

武衛公(斯波義銀)とともに、信長から国外追放

される。ルイスフロイス「日本史」によれば、

尾張を追われた石橋殿は松永久秀を頼り十市

城に居を構えた。のち久秀が討ち死にした後、

高山右近が高槻城下に居を構えさせたとある。



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