【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
*兵部太輔→本当は兵部大輔
はなるべく原文のままとしました。
17織田信長黒印状 天正三年五月廿六日
<本文>
去る二十一日(長篠での)合戦のことにつ
いてはすでに書面でお伝えし(そちらで)お聞
きになったとおりである。即時に(敵勢を)切
り崩し、数万人を討ち果たしたが、四郎(武田
勝頼)の首はまだ見ていない。大方切り捨てて
(一部は)河へ漂う武者(の遺骸が)若干あっ
たので、その中にあったのかもしれない。いず
れにせよ、甲(斐)・信(濃)・駿(河)・三
(河)の軍兵が相まみえた戦いで(四郎を)生
残させたことはなかろう(と思う)。近年の鬱
憤を散じた(次第である)。
これから申し上げる通り、京都並びに(近)江・
越(前)方面について、私が諸事情で手間取って
いるうちに(親の武田)信玄入道は言うことに表
裏を構え、(私からの)旧恩を忘れ恣意の行動を
とっていたし、(子の)四郎(勝頼)もまた同様
に是非のない行動をとっていた。いつでも(この
信長が)手合わせすれば、今回のように太利を得
るということは案に違わない(自明の理の)こと
である。祝着至極である。
この結果、(貴殿が活動されている地域にある)
小坂(=大坂)本願寺が焦点となる。現在は兵数
が少なく(今すぐには手を付けられないが)、近い
うちに上洛できるはずなので、お会い(して打合せ)
する機会もあると思う。恐々謹言。
天正三年五月廿六日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正三年=1575年
**純野のつぶやき**
天正三年(1575年)の前回の書状(五月廿一
日)の5日後の日付の書状です。信長公は、5月25
日には三河経営の指示を下し、岐阜へ帰陣し始め
ていますので、この書状はその途中で出されたも
のと思われます。
注目されるのは、
1)信長公の情報網では上記の通り「長篠の戦い
で敵将四郎勝頼を討ち果たしたはずだが首が見つ
からない」ということになっていたようです。初
めて知りました!
2)長篠の戦いの直後なのに「次のターゲットは
本願寺である!」と信長公は長岡藤孝に伝えてい
ます。もしかしたら藤孝のほうからも本願寺攻略
がこれからの重要な課題であることを伝えていた
のかもしれません。
3)その後信長の軍は同年7~8月に越前征伐に向
かうことになりますが、その原因が武田信玄・勝
頼親子にあると明言しています。
あいかわらず長岡藤孝と手紙のやり取りをする
信長公もマメでございます。ひょっとしたらこの
頃の二人の情報網の速さ・正確さは、他の勢力を
寄せ付けない日本最高のレベルにあったのかもし
れません。
以上
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し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
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*兵部太輔→本当は兵部大輔
はなるべく原文のままとしました。
17織田信長黒印状 天正三年五月廿六日
<本文>
去る二十一日(長篠での)合戦のことにつ
いてはすでに書面でお伝えし(そちらで)お聞
きになったとおりである。即時に(敵勢を)切
り崩し、数万人を討ち果たしたが、四郎(武田
勝頼)の首はまだ見ていない。大方切り捨てて
(一部は)河へ漂う武者(の遺骸が)若干あっ
たので、その中にあったのかもしれない。いず
れにせよ、甲(斐)・信(濃)・駿(河)・三
(河)の軍兵が相まみえた戦いで(四郎を)生
残させたことはなかろう(と思う)。近年の鬱
憤を散じた(次第である)。
これから申し上げる通り、京都並びに(近)江・
越(前)方面について、私が諸事情で手間取って
いるうちに(親の武田)信玄入道は言うことに表
裏を構え、(私からの)旧恩を忘れ恣意の行動を
とっていたし、(子の)四郎(勝頼)もまた同様
に是非のない行動をとっていた。いつでも(この
信長が)手合わせすれば、今回のように太利を得
るということは案に違わない(自明の理の)こと
である。祝着至極である。
この結果、(貴殿が活動されている地域にある)
小坂(=大坂)本願寺が焦点となる。現在は兵数
が少なく(今すぐには手を付けられないが)、近い
うちに上洛できるはずなので、お会い(して打合せ)
する機会もあると思う。恐々謹言。
天正三年五月廿六日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正三年=1575年
**純野のつぶやき**
天正三年(1575年)の前回の書状(五月廿一
日)の5日後の日付の書状です。信長公は、5月25
日には三河経営の指示を下し、岐阜へ帰陣し始め
ていますので、この書状はその途中で出されたも
のと思われます。
注目されるのは、
1)信長公の情報網では上記の通り「長篠の戦い
で敵将四郎勝頼を討ち果たしたはずだが首が見つ
からない」ということになっていたようです。初
めて知りました!
2)長篠の戦いの直後なのに「次のターゲットは
本願寺である!」と信長公は長岡藤孝に伝えてい
ます。もしかしたら藤孝のほうからも本願寺攻略
がこれからの重要な課題であることを伝えていた
のかもしれません。
3)その後信長の軍は同年7~8月に越前征伐に向
かうことになりますが、その原因が武田信玄・勝
頼親子にあると明言しています。
あいかわらず長岡藤孝と手紙のやり取りをする
信長公もマメでございます。ひょっとしたらこの
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寄せ付けない日本最高のレベルにあったのかもし
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