『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:48織田信忠書状 天正十年三月廿五日

2022-05-22 00:00:39 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。

6)ほとんど信長公から発せられた書状が多

い中で、本書状は織田信忠が発したもので、

かなり珍しいものです。


47織田信忠書状 天正十年三月廿五日
 
(陣中)見回りの使者を送っていただいたの

は祝着(至極)である。この度の遠国からの

着陣は大儀であった。詳しくは、赤座七郎右

衛門尉(永兼)がお伝えするだろう。謹言。

天正十年三月廿五日 信忠(花押)

 長岡与一郎(忠興)殿

    ※天正十年=1582年


**純野のつぶやき**

これは信長公の嫡子信忠から、丹後国から信

濃平定の軍に参戦した長岡忠興に送られた書

状です。天正十年三月二十五日といえば、武

田父子の頸が滝川一益→織田信忠→織田信長

と進上され、長岡忠興は信長の軍に参加して

いますので、そこから見回りの使者を織田信

忠の軍に送ったものと思われます。父長岡藤

孝同様、手紙を通信手段として用いた細かい

気配りが感じられます。

 赤座永兼は、越前から尾張の赤座氏の養子

となり、織田伊勢守信安の女を娶り、のちに

織田信長・信忠の奉行役となった人物です。

 翌4月信長は佐々木六角義治をかくまって

いた咎により、織田信忠に命じて甲斐の恵林

寺を成敗しますが、織田九郎次郎・長谷川与

次・関長安・赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺

の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅

寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川

長老らを含め百五十人余りを焼き殺すことに

なりました。

以上


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