【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
6)ほとんど信長公から発せられた書状が多
い中で、本書状は織田信忠が発したもので、
かなり珍しいものです。
47織田信忠書状 天正十年三月廿五日
(陣中)見回りの使者を送っていただいたの
は祝着(至極)である。この度の遠国からの
着陣は大儀であった。詳しくは、赤座七郎右
衛門尉(永兼)がお伝えするだろう。謹言。
天正十年三月廿五日 信忠(花押)
長岡与一郎(忠興)殿
※天正十年=1582年
**純野のつぶやき**
これは信長公の嫡子信忠から、丹後国から信
濃平定の軍に参戦した長岡忠興に送られた書
状です。天正十年三月二十五日といえば、武
田父子の頸が滝川一益→織田信忠→織田信長
と進上され、長岡忠興は信長の軍に参加して
いますので、そこから見回りの使者を織田信
忠の軍に送ったものと思われます。父長岡藤
孝同様、手紙を通信手段として用いた細かい
気配りが感じられます。
赤座永兼は、越前から尾張の赤座氏の養子
となり、織田伊勢守信安の女を娶り、のちに
織田信長・信忠の奉行役となった人物です。
翌4月信長は佐々木六角義治をかくまって
いた咎により、織田信忠に命じて甲斐の恵林
寺を成敗しますが、織田九郎次郎・長谷川与
次・関長安・赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺
の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅
寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川
長老らを含め百五十人余りを焼き殺すことに
なりました。
以上
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<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>
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5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”
となっている部分ですので完全に純野の推察
です。
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い中で、本書状は織田信忠が発したもので、
かなり珍しいものです。
47織田信忠書状 天正十年三月廿五日
(陣中)見回りの使者を送っていただいたの
は祝着(至極)である。この度の遠国からの
着陣は大儀であった。詳しくは、赤座七郎右
衛門尉(永兼)がお伝えするだろう。謹言。
天正十年三月廿五日 信忠(花押)
長岡与一郎(忠興)殿
※天正十年=1582年
**純野のつぶやき**
これは信長公の嫡子信忠から、丹後国から信
濃平定の軍に参戦した長岡忠興に送られた書
状です。天正十年三月二十五日といえば、武
田父子の頸が滝川一益→織田信忠→織田信長
と進上され、長岡忠興は信長の軍に参加して
いますので、そこから見回りの使者を織田信
忠の軍に送ったものと思われます。父長岡藤
孝同様、手紙を通信手段として用いた細かい
気配りが感じられます。
赤座永兼は、越前から尾張の赤座氏の養子
となり、織田伊勢守信安の女を娶り、のちに
織田信長・信忠の奉行役となった人物です。
翌4月信長は佐々木六角義治をかくまって
いた咎により、織田信忠に命じて甲斐の恵林
寺を成敗しますが、織田九郎次郎・長谷川与
次・関長安・赤座永兼が奉行を務め、宝泉寺
の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山の長禅
寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川
長老らを含め百五十人余りを焼き殺すことに
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