十和田湖と坂上田村麻呂

2010-08-26 07:36:37 | レイライン・パワースポット・龍神・古代

(上記写真は十和田神社)

「レイラインハンター 日本の地霊を探訪する/内田一成・著」から

――以下抜粋――

◆坂上田村麻呂の戦術

8世紀全般に渡り、西から勢力を伸張してきた大和朝廷が東国支配を目論み、蝦夷の天地にしばしば侵攻する。

ところが、蝦夷の抵抗は激しく、送り込まれた朝廷の軍勢はことごとく敗走することになる。
三内丸山から延々と続いてきた蝦夷の平和がそのまま続くかに見えた。

ところが9世紀に入り、朝廷は最後の切り札として、武運の誉れ高い坂上田村麻呂を征夷大将軍に起用する。
すると長年抵抗を続けてきた蝦夷は、田村麻呂の前に呆気なく平定されてしまう。

田村麻呂を起用したのは桓武天皇だった。
桓武天皇は平安京遷都にあたって風水や陰陽道を駆使し、自らが死に追いやった実弟の早良親王の怨霊を封じたことでも知られるが、唐様の習俗や文化を積極的に取り入れて呪術政治を行った。

その桓武天皇の腹心であった田村麻呂は、当然陰陽道にも精通していた。

ただし武人である彼は桓武天皇のように徹底した陰陽師であった訳ではなく、実際的な力である武力と霊的或いは心理的な力と言える陰陽道とを上手く使い分ける巧みな戦略家だった。

三内丸山の縄文精神を受け継ぐ蝦夷達は、人間と土地の結びつきを重要視していた。
限りない恵みを与えてくれる大地に感謝し、その大地と対話出来る場所を聖地として祀っていた。

その蝦夷の聖地に楔を打ち込んで、これを機能させなくすることでまず精神的なダメージを与え、それで骨抜きになった蝦夷に対して武力攻撃で止めを刺すのが、田村麻呂の戦略だった。

三内丸山遺跡(青森市)を起点に大規模な大湯ストーンサークル(秋田県鹿角市)と、

上大石神ピラミッド(新郷村)を結ぶと見事な三角形が出来上がり、

その三角形の中には十和田湖がすっぽりと収まっているのだ。

強大な水神が眠る湖として太古から信仰の対象とされてきた十和田湖は、巨石遺構を結ぶレイラインに囲まれると同時に、岸辺にも巨石遺構が残っている。

風水や陰陽道では、幾筋もの龍脈(大地の気が流れるルート)を流れてきた気が龍穴というポイントで集中すると言われる。
龍穴は池や湖であることが多いが、それは水が気を溜めて更に増幅するコンデンサの役割を果たすとされるからだ。

そして龍穴に漲った気は、龍=水神に象徴される。太古の巨石信仰を受け継ぐ蝦夷にとって十和田湖は、当然この上ない聖地であった。


この十和田湖の中に突き出た中山半島の根元に十和田神社がある。
(十和利山頂上から見た十和田湖。去年の6月の写真です)


この神社は坂上田村麻呂によって創建された。
ここは蝦夷にとっては、強大な気が集中する巨大龍穴であり、最重要とも言える聖地だった。

田村麻呂が朝廷から東征の任を受ける前、この地を本拠とする蝦夷は、アテルイというアラハバキ神を奉じるシャーマニスティックな指導者に率いられ、強大な勢力を誇っていた。

田村麻呂は、ピンポイントで十和田湖を攻略し、ここに神社を創建するという正に蝦夷の聖域中の聖域に楔を打ち込んだ訳だ。

それまで威勢を駆って都にまで攻め入ろうという程だったアテルイ軍は、坂上田村麻呂が率いる軍勢に対して、突然劣勢となり、各地で敗退し、ついには総崩れとなってしまい、アテルイは田村麻呂に捕らえられ、打ち首となる。

そんな田村麻呂のアテルイ軍の士気を阻喪させる心霊戦、心理戦に蝦夷は屈したと言えるのではないだろうか。


蝦夷は太古から縄文そして中世へと脈々と受け継がれてきた巨石信仰=アラハバキ信仰に由来し、それと結びつくアラハバキは天空神であり漂泊神とされる。

天の力と大地の力の両方に通じた神であり、巨石信仰の場所に降臨し、レイラインを伝わって移動して行く。

そしてアテルイにアラハバキが憑依して絶大な指導力と運を手にしたように、ある瞬間にその場にいる人間にとてつもない力をもたらす。

確かに坂上田村麻呂によって一つの重要なレイラインは封じられたが、北東北の巨石信仰レイラインのチャンネルはそれだけではなかった。



十和田湖子ノ口