7月19日の写真ですが、津軽半島、十三湖の北に位置する、
五所川原市(ごしょがわらし)市浦(しうら)にあるレイライン靄山(もややま・152m)に登ってみました
レイラインとは私が勝手に述べさせて頂いてますが、写真青森県地図の1が靄山です。
頂上には片道20分ほどで着き、お天気が良ければ岩木山が綺麗に見えるそうですが、この日は残念ながらうっすらとしか見えませんでした。
一番上の写真は国道339号から北に向かって見た靄山です。
やはり綺麗なピラミッド型をしています。
靄山の西側にある日本海の海岸から見た靄山ですが、半円形の形に見えます。
頂上には「岩木山神社」があります。
「もや」とは里山の独立した山を指す言葉で青森市にある雲谷山も語源は同じとのことです。
『津軽古代王国の謎/佐藤有文・著』の本には、
「靄山を日本海側から見れば半円形となり、別な角度から見れば三角型ピラミッドの姿をしているが、このような形態は前方後円墳の地形とよく似ており、大和地方の御神体山・三輪山とそっくりである」
と述べています。
私も三輪山を一度見てみたいです。
京都芸術短大の渡辺豊和教授は同じく著書の中で、
「大和三山の耳成山と天香具山は、縄文人達が太陽の観測をするのに利用した人造ピラミッドだろう」と述べ、
更に佐藤有文氏は、
「これらの大和三山や三輪山は、かつて大和の大王・長髄彦が住んでいた故郷であり、鳥見山(登美山ともいう)から三輪山を参拝。
合わせて大和三山を神聖なる太陽の通る霊山として崇拝していたに違いない。
したがって神武天皇軍に敗北した大王・長髄彦が津軽の十三湖に逃亡したとすれば、長髄彦はそれらの山を忍んで、ピラミッド型の靄山を人工的に築いたとも推定出来る。
しかも大和三山の天香具山と十三湖の靄山は、奇しくも同じ標高152m。
これは単なる偶然に過ぎないのだろうか」
と述べています。
続く
五所川原市(ごしょがわらし)市浦(しうら)にあるレイライン靄山(もややま・152m)に登ってみました
レイラインとは私が勝手に述べさせて頂いてますが、写真青森県地図の1が靄山です。
頂上には片道20分ほどで着き、お天気が良ければ岩木山が綺麗に見えるそうですが、この日は残念ながらうっすらとしか見えませんでした。
一番上の写真は国道339号から北に向かって見た靄山です。
やはり綺麗なピラミッド型をしています。
靄山の西側にある日本海の海岸から見た靄山ですが、半円形の形に見えます。
頂上には「岩木山神社」があります。
「もや」とは里山の独立した山を指す言葉で青森市にある雲谷山も語源は同じとのことです。
『津軽古代王国の謎/佐藤有文・著』の本には、
「靄山を日本海側から見れば半円形となり、別な角度から見れば三角型ピラミッドの姿をしているが、このような形態は前方後円墳の地形とよく似ており、大和地方の御神体山・三輪山とそっくりである」
と述べています。
私も三輪山を一度見てみたいです。
京都芸術短大の渡辺豊和教授は同じく著書の中で、
「大和三山の耳成山と天香具山は、縄文人達が太陽の観測をするのに利用した人造ピラミッドだろう」と述べ、
更に佐藤有文氏は、
「これらの大和三山や三輪山は、かつて大和の大王・長髄彦が住んでいた故郷であり、鳥見山(登美山ともいう)から三輪山を参拝。
合わせて大和三山を神聖なる太陽の通る霊山として崇拝していたに違いない。
したがって神武天皇軍に敗北した大王・長髄彦が津軽の十三湖に逃亡したとすれば、長髄彦はそれらの山を忍んで、ピラミッド型の靄山を人工的に築いたとも推定出来る。
しかも大和三山の天香具山と十三湖の靄山は、奇しくも同じ標高152m。
これは単なる偶然に過ぎないのだろうか」
と述べています。
続く