青森県夏泊半島の椿神社

2010-10-08 05:35:54 | 神社・お祭り・温泉・旅

「猿田彦と椿/古賀登・箸」の本から

――以下部分抜粋――

古来、日本人はツバキの花に特殊な感情を抱き、ツバキにまつわる様々な民俗を生んできた。
ツバキは日本の関東以西、韓国最南端、中国南部からヒマラヤの温暖帯地方のネパールにかけての所謂照葉樹林帯を代表する樹である。

日本のツバキ、中国雲南省西南部のトウツバキ、雲南省・四川省南部のサルウィンツバキ、中国中南部のピタールツバキ、浙江(せっこう)紅花油茶などの品種が知られている。常緑広葉樹であるから、照葉樹林帯以北には育ちにくい。

またヤブツバキは、ユキツバキの海岸型として分化したもので、ユキツバキはトウツバキが中心である中国南部から、地球上の気候の変化に伴ってツバキの祖型が日本に分布してきたものと推定されている。

ユキツバキは、日本海沿いの福井県西部から秋田県田沢湖にいたる山地に分布し、また岩手県東南県境の猿岩でも発見されている。

そのユキツバキの海岸型がヤブツバキであれば、かなりの高緯度にヤブツバキが自生しているとしても、椿山のある青森県東津軽郡平内(ひらない)町は、11月中旬から翌年の3月末頃まで降雪があり、降雪量も多く厳しい自然環境である為、椿山の椿を「誰かが植えた」と考えるのは自然である。

その椿山にある椿神社の祭神は、猿田彦である。

猿田彦を祀ったのは1573~1592年、或いは1594年に田沢村(平内町田沢)の横峰嘉兵衛の女房に神が乗り移り、託宣によって当地の守護神として椿崎大明神を祀ったのが創祀で、始めは鳥居だけであったが、1698年にお上の仰せによって社殿を造立し、『津軽俗説選』を書いた弘前の人・工藤白竜は、1789~1800年に伊勢国河曲(かわわ)郡の椿社(今の鈴鹿市椿一宮の都波岐神社)から勧請したと記している。

だが何故、猿田彦なのか。

江戸後期の旅行家、菅江真澄が伝えた椿山伝説によると、ここは都からの船が寄港する所とあるから、航海の神として祀られたのかも知れない。

椿一宮の猿田彦は、神功皇后の新羅遠征に従軍して軍功を挙げ祀られたというから、海士達の神である。

また、ここから夏泊半島を西に進み、油目崎を過ぎると小リアス式海岸が続き、稲生・浦田・茂浦では、かつて塩を焼いており、鎮守の塩釜神社では塩土老翁を祀っている。

塩土老翁は、猿田彦と同神であり、猿田彦は製塩業者が信仰していたものかも知れない。

椿神社の猿田彦について見落とせないのは鉱山との関係である。田沢の椿山には椿山鉱山があり、銅・鉛・亜鉛が採鉱されていた。

青森県は秋田県と並んで鉱山が多く、砂鉄生産量は東北地方の約60%を占めている。

津軽は縄文時代、三内丸山遺跡に見られるように先進地帯であったが、弥生・古墳時代以降は蝦夷の地として後進地帯と見做されるようになってしまった。

しかし鉱物資源の開発は、意外に早かったのではあるまいか。
それを開発したのは猿田彦を奉斎する技術者集団であり、それを証明しているのが田沢(平内町夏泊半島)の椿山にある椿神社である。