保育園に子供を迎えにいくと、すぐ後に別の子の保護者もお迎えにきました。すると何故か先生が、その子を先に「お迎えだよ」と呼び、その子の保護者に先に話し始めました。普通は迎えに来た順で、こちらに何か長くなる話でもあるのかと思うも何もありません。
先生に私が先に来たのが見えないわけでもありませんでした。
こういう扱いを受けると、モヤっとし、後回しにしてもよい人だと思われているのだろうなと受け止めてしまいます。
考えても仕方がないので、ああそういう人なんだなと思うほかありません。
おそらく、この状況で私が先でしたよ、などと先生に言えるような人は、そもそもそういう扱いを受けないから、こういう感じってわからない人にはわからないんだろうなあといつも思います。
そういう扱いを受けても構わないように思えるオーラが出ているのでしょうが、そうならないよう気を張ろうと思っていても維持し続けられず。
でも私だってそれなりに頑張って生きているんですよ。
我が身を振り返れば、自分が誰かを値踏みして判断していないとも言えないので、できることと言えば自分はそうならないようにし、人生の時間を共に過ごす友人達は、そうではないような人達と居たいです。
artisticとartificialは両方ともartから派生した語なのか気になりました。芸術も人口物も、同じartなら、私の作った物でもartって言えるかしら、と。
自宅の辞書を見ると、どちらの語もartのところに記載がありました。その辞書によればartの元々の意味は技巧とか技なのだそうで。
なるほど、芸術作品も人工的な工業製品なども技がありますね。
私のような、ちょっと物が作れる人は掃いて捨てるほどいるだろうけれども、作れない人もいるだろうから、技がないとも言えない。artではないとも言いきれない(ぺこぱ風)、ということで少しずつでも精進したいと思います。
起業したら恐れていることの一つは夫との関係性。
夫はもともとハンドメイドで起業なんて儲からばない、馬鹿馬鹿しいと思っているようだ。
お金を稼げなければ無価値?
お金のために色々なことを我慢するの?
もう人生半分終わってる。半分くらい好きなように生きてみたいと思ってはダメ?
いつだって何かをしようと、買おうとすれば「高い」という夫。
生きていけないほどに困窮しているわけではないのに。
子供の習い事、おもちゃ、体験、旅行、家電、何かにつけてそう言うのです。
いつか、そんなに「高い」のが嫌なら、人生もう止めれば?と言ってしまいそう。そういうことではないとわかっているけれど。
起業などしたら上手くいく保証もなく
上手くいったとしても数年は赤字でしょうか。
稼いでいないから、と家事育児は全て妻の仕事となり、結局自分の時間を持てずに頓挫してしまうのかも。
もっとひどい想像は、夫が誰に食わせて貰ってると思ってるんだ、と言い始めるとか家から追い出されるとか?
でもこういう考えもやろうとしない言い訳かも?
もし夫がハンドメイドで起業したいと言ったら、別々の物を作って一緒に店やろうって思える。
ローンの支払いのためにあと何年かは二人で頑張って働こうと計算すればよいと思うし、
本当に貧乏になったら家を売る。
ああそうか、私は夫に応援してできれば仲間になって欲しいんですね。
応援されるようになるにはどうしたらよいかな。
独身時代、週末起業のセミナーに参加しました。全く内容は覚えておらず「このセミナーは家事や起業の手伝いをしてもらえる妻がいる人向け」と感じたのでした。
当時ですら、働きながら全てを自分でしなければ起業できない自分には参考にならない、と感じてしまった。今はそこに育児も加わるんだろう。
起業に際してやるべき内容には参考にできる部分がおそらくあったのだろうけれども
今、細々と起業してくらしていけないかを考えると、あのときのセミナーへの拒否感が思い出される。
好きなものを作って人生後半を好きなように生きたいという想いは持っているけれども、
ぐちゃぐちゃの家で家事、育児、仕事、何もできないように思えるところから踏み出すのが困難に思われるのは、
ぐちゃぐちゃを維持して、できないままの状態にすることで
自分の力で生きていけそうもない
と前に進むことを怖がっているだけなのかしら?