一時期は、夜寝てこのまま目が覚めなかったらどうしようという恐怖があった。両親が亡くなって、死が身近だったせいだと思う。
もっとも、そうなった場合には、自分は死んでいるからどうしようもない。
ただ、自分でも死んだと知らないまま死んで、子供達の成長も見られないかもしれない、と思うと恐怖だった。
今はそこまでは思っていなくて、
何故か今日も生かされたんだなあと思う 。
一時期は、夜寝てこのまま目が覚めなかったらどうしようという恐怖があった。両親が亡くなって、死が身近だったせいだと思う。
もっとも、そうなった場合には、自分は死んでいるからどうしようもない。
ただ、自分でも死んだと知らないまま死んで、子供達の成長も見られないかもしれない、と思うと恐怖だった。
今はそこまでは思っていなくて、
何故か今日も生かされたんだなあと思う 。
コロナ禍の福音はテレワークが日常化したことだった。
私の勤め先は、コロナ前にもテレワーク制度があったものの
育児や介護をする人向けになっていて、全員のための制度ではなかった。
おそらく部署の考えに左右されていたので他部署と違っていたかもしれないが、かなり前から申請し承認の返事を貰わなければならず、書類の電子化も進んでいなかったため、月に一度くらいしか利用できていなかった。
それがコロナ禍で、テレワークは全員が使える制度になり使い勝手がよくなった。
コロナが終息すれば、テレワークは廃れるような気もするが、コロナ前ほどまでは戻らないんじゃないか。
テレワークは仕事、家庭や自分の体調などにおいて善し悪しあるけれど、
テレワークを中断して保護者会に参加、などというとき、特に保護者会もオンライン化しているときは、通勤や園への往復時間もなく、休暇が減るのを最小限にでき、ありがたや。
(このような苦労をするのはなぜ母親ばかりなのだという疑問は残る)
さて、自分はほかの人になってみることはできないからほかの人の心の内はわからないのだけれど
人がどう思うかばかり気にせず、自分を貫く、愚痴を言わない(少なくとも人前で)など素晴らしき人たちは存在していて
前向きなのはなぜなのだろう。
そのままの自分では許されない、誰かに認められる自分でなくては価値がない、そんなことはないはずなのに
そういう価値感が、親から刷り込まれてしまったままだろうか。
小学生のころには、自分には何でもできるような自信みたいなものがあったのに、
「誰からも褒められることはなく、欠点はすぐに指摘され、誰かと比較される」ことが続けられた結果か、
まるで自信も存在感もない自分になってしまった。
夫は「褒めもせず、欠点や間違いを指摘し、誰かと比較する」人にみえるが本人は意識していないだろう。
こんな夫と、自信のない自分が子育てをして、ちゃんと子供が育つか、かなり心配なのだ。