先日、イスラム教の友人と食事会をする機会があったのですが、皿洗いが終わったら彼女が「xudoga shukur」と呟くのに気がつきました。それまでは全部日本語で話していたので明らかに私語でしたが、気になって意味を聞いてみることにしました。すると「神様ありがとう」の意味だと説明してくれました。アメリカで育った私は、なぜ皿洗いのあとに神様に感謝をいうのかは見当もつかなかったので、さらに訊いてみました。どうやら、彼女の文化では疲れていたとしてもそれを口にしてはいけないらしいです。言ってしまいそうな時は代わりにポジティブ志向を活かし、神様に感謝を述べるわけです。
なるほど。しかし、いつもこんな状況で使用していればせっかくポジティブに言い変えているのに、裏を読まれて文句を言っているように解釈されかねません。最悪、《神様に感謝をいうこと=文句をいう》という直結関係に陥る可能性さえ考えられます。
このように解釈によって見出せる意味が本来の意味を覆すという例はたくさんあります。自分の母語からよくあげられるのは皆さんのよくご存じ「Good-bye」です。昔は「God be with you」という極めて宗教的かつ多様的な表現に由来しています。しかし、時を経てだんだん形が変わってきて今では宗教と関係のない、別れる挨拶の意味しか持たなくなりました。
「Xudoga shakur」はいつか「疲れた」の意味しか持たなくなる確証はもちろんありません。意味に全く変化のないまま永久に維持されていく可能性だってあります。しかし、もしそうだとしたら「なぜ」という疑問が生まれます。
皆さんの母語にもこういう例はどんなものがありますか。すでになっている例も、なるのではないかなという例も、是非とも伺いたいところです。【Joe Tabolt M1】
Joeさんが挙げている例はとても面白いですね。そして、質問がありましたので、そちらに答えます。日本語にもかつては意味があったのに、それが特定の場面で用いられることで、意味を失い、その外形だけ残っている表現、つまり形骸化した表現はいくらでもあります。「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」「さようなら」などの挨拶表現は、かつては全て意味を持っていました。しかし、現代では、その意味を意識することはありません。
言語別の挨拶言葉を比較すると面白い結果が得られそうですね。
もとから意味より人との間柄を考えながら使う表現だということもあって、挨拶によく現われる現象のようですね。面白いことにスペイン語(adios)にもフランス語(adieu)にも英語とほとんど同じ変化が見られます。ひょっとしたらヨーロッパの諸言語によくあるパターンのではないかと思います。