2005年の日本映画『Always三丁目の夕日』は、話題になった作品である。高度経済成長に向かう日本社会で、当時の下町の人々の人情味ある生活を捉えていると評価されていた。
その中で次のようなシーンがある。主人公の家に近所の人々が集まって、テレビでプロレスを観ている。力道山という戦後最大のヒーローが活躍する姿にみんなで喝采を叫んでいるのである。日本人が皆日本人としてまとまり、それを近所の人々が一緒になって応援する。古き良き日本である。
実はこのシーンは歴史的社会的には嘘が紛れ込んでいる。主人公の家にテレビがある風景というのは、昭和34年以降であろう。今の上皇
陛下、当時の皇太子が結婚したのが昭和34年。結婚パレードを見ようと一般家庭もやっとテレビ購入に向かう。
この映画33年に設定されている。長嶋の活躍だ。力道山が亡くなるのは昭和38年。だからこのあいだの出来事が映画で描写されたことになるが、この時代に近所の人々が集まってテレビを観るという風景はすでに過去のものになっていた。
街頭テレビからもらい湯テレビ(銭湯や喫茶店など)、そして金持ちの家にテレビと広がっていく。当時の金持ちは近所の名士であり、近隣住人と仲も良く、かなりの交流があった。貧富の格差があったとしても仲が良かったのだ。つまり共同体が生きていた。
一般家庭にテレビが入るようになると、家族団欒でテレビ視聴する習慣が形成される。だから、『三丁目の夕日』の主人公がドラマを演じる個人商店「鈴木オート」がテレビ購入する時には、すでに地域住民が集まって視聴するのではなく、家族で視聴するようになっていた頃だ。
ちなみに力道山がなくなる頃には、プロレスは最大の視聴率獲得コンテンツであったが、プロレスを好きな人が見るようになっていて、大衆全体が見るような娯楽ではなくなっていた。
だから描かれている時代において、地域住人が集まって、力道山をテレビで応援するなどは嘘である。
しかし、この嘘に意味がある。「古き良き日本」の想像的世界であるからだ。皆「あの頃の日本はよかった」という思いを抱くのである。その意味で現実それ自体ではなかったが、我々日本人が思い描く本来の日本の姿である。
『Always 三丁目の夕日』が人気があったのは、日本人が思い描く本来の日本人像、人情に厚く、自分のことより他人のため、近所の人々が仲間であり、貧しくとも協力して生きていく姿が描かれていたからである。僕はこれを想像的日本と名付けておきたい。
残念なことに、すでに日本に共同体意識はない。ある学者によれば、日本には社会がなくなったとさえ言う。この場合、社会とは共同体である。
そこで、オモウマい店である。オモウマい店は、『Always』のように令和の想像的日本が表現されてしまっている。そこにはテレビ的な誇張(つまり、カーニバル的)がなされつつ。タレントのヒロミが言うように「昔はこんなおじさんいたよね」「こんな店あったよね」との思いを引き出すのだ。加えて、コスパ思考のような現代的価値観さえ満足させるという点で、優れたテレビ番組になっている。
現代の日本は本来の日本人がいなくなってしまって、個々別々に生きていく世界になっている。かつてあったであろう協力して生きていく日本人像は見られなくなってしまったのだ。しかし、我々日本人はあの想像的日本を心に抱えているのだ。そのような日本人がテレビというメディアで現れている。
我々日本人はその意味で日本人の心を失っているわけではないのかもしれない。あえていえば、これが郷土愛に繋がるようなものだと思う。
まだ、いろいろ語れることはあるけれど、この項はこの辺で区切っておこう。