トロッコ問題の正解が出たとのテレビ番組の1コーナー。少しばかり軽薄な内容ではあった。
だからといって、テレビの影響で僕たちがばかになるなどと言いたいわけではない。実際、僕はテレビの内容自体がおかしいと考え、このブログを書いたわけだし。内容をそのまま信じる人というのは、多少お調子者という程度だろう。テレビの強い影響というよりも、ある信念や価値意識を再生産するということだと思う。
ところで、近年トロッコ問題を取り上げて有名なのはマイケル・サンデルであった。彼は共同体主義者であったが、僕の考えでは彼の考えに一日の長があるようにも思われる。
正義の政治的形式は功利主義、共同体主義、アリストテレス的徳、リベラリズム、リヴァタリアニズムなどが取り上げられていた。それぞれについては、ネットで調べるなり、サンデル著を参考にして欲しい。
共同体主義が一日の長がある理由をトロッコ問題から考えてみることにしよう。ここで5人は他人で1人の方は家族であると仮定する。共同体主義なのだから、当然のこと、家族の1人を助けようとする。助かったとする。
5人は亡くなった。そうすれば、「私」は5人を見捨てたと感じ、責任を感じざるを得ないかもしれない。しかしだ。助けた家族の1人やそれ以外の共同体のメンバーから、声をかけられたり、一緒の時間を過ごしてくれたり、彼の思いを引き受けてくれることが期待される。
「私」はどうしようもない状況で、必ずしも正しいとは言えないかもしれない選択を強いられ、選択し、実行した。人間には超えられない問題がある。それでも、選択してしまった。
そういう矛盾した人間状況は解決困難である。でも、「私」には「私」をケアしてくれたり、受け止めてくれる人々がいる。そういう状況なら、彼の思いはただ彼の中だけで渦巻くのではなく、共同体の人々と共有する事ができる、共同体が受容してくれる。「私」は少しばかり生きやすくなるに違いない。
対比した功利主義では、5人をどんな人間なのかということと関係なく、数量として捉えた。5人を救ったが、家族を見捨ててしまったとする。「僕」は明日も生きなければならない。誰が彼を受け入れるののだろうか?功利主義は損得に支配された世界なのだから、他者の受容などという共同性は後退している。
僕たちは時間的存在であるから、一瞬の出来事の意味は時間とともに変容する。ところが、トロッコ問題は思考実験でしかないが、一瞬の出来事に対して善悪をその瞬間に決定できるという問題を隠し持っている。
共同体もまた時間的存在である。