「革命のない日本」というのは、日本で民主主義革命が市民の手によって実践されてはいないという程度の意味である。裏側からいうと「平和(志向)の日本」である。
そもそも平和というのは、戦争のない状態を意味するだけである。そもそも30年戦争の後構築されたウェストファリア体制で、実体化した概念が平和である。日本人にとって、平和というより安堵を願うという心性であろう。このような心性は、日本人が平和という言葉を発するとき、その内実に安堵という考えを忍ばせているのではないかと思う。
ここでハンチントンが指摘するのが明治維新である。明治維新もまた西欧の民主主義の起点と同様の位置づけになるように思われるが、その内実を観察すると、大きく異なっているというのである。
フランス革命での死者数は100万人に及ぶと言われるが、明治維新の戊辰戦争や西南戦争は3万4000人程度である。これをもって、日本の明治維新は「流血をともなう革命」ではなく、無血の革命とさえ言っていいのではないかというのである。これが日本の特徴である。これはハンチントンだけではなく、歴史家のトゥィンビーも同様の指摘をする。
このような革命期に大激動が起きなかったのは、日本程度であろう。フランス、アメリカ、ロシア、中国等々、大激動を経験している。日本では何か大きな社会変革があるにしても、なぜか何事も起きていないかのように、普段の生活を維持したままである。明治維新もそうであったろうし、連合国の占領を経験した時でも、それほど混乱があったとは思われない。日本人の従順さを感じさせるほどである。
当然のことであるが、鬼畜米英を喧伝されていた日本社会に、米軍が占領すれば、当然激しい反発があるものである。当時の占領軍も日本国民の反発に強い警戒心を抱いていた。ところが、そうはならなかった。社会を引き裂くような苦しみと流血ではなく、占領と独立が自然な流れのように待ち受けていたのである。僕にはこのような人為的な混乱があたかも自然災害のように経験されているように思われる。
その結果、日本は伝統的な日本という文化的統一を保ったまま、近代化と高度経済成長を成し遂げていく。ここ最近、この20年を「失われた20年」と呼びながらも、あたかも自然災害ほどの強度がないにしても、自然なことのように日本人は受容しているのではないかと思わずにいられない。例えば、格差社会も賃金低下もそういう中のひとつであろうか。
山折さんは象徴として、広島の「原爆ドーム」を取り上げ、エルサレムの「嘆きの壁」と対照する。この対比の中で、「革命のない日本」と、あえて言えば流血も辞さない「革命のある世界」のありようの違いをイメージとしてではあるが、描いている。
(つづく)