一昔前には、専門家であるだけではなく、知識人というか教養人がいたと思う。とりあえず教養人とでもしておこう。最近の教養人が誰かといえば、僕が思い出すのは、養老孟司と福岡伸一ぐらいだろうか。
そこで一昔前の教養人として思い出されるのは、例えば数学者の岡潔ではないかと思う。もちろん数学の専門家であるが、エッセイストとしての顔を持ち、今読んでも色あせることがない。岡潔の言葉にはそのような趣がある。
今読んで色あせることがないというのは、おそらく古典の言葉であるが、最近の言葉は流行や世におもねる言葉に過ぎず、すぐ色あせるだろう。
小林秀雄との対談がある。その中で、世界の知力が低下すると、暗黒時代になると指摘している。今の政治状況を思い出してしまう。
そのような時代は真善美を問題にしようとしないため、実生活の結びつきだけで、ものごとが考えられるようになるという。功利主義というまとめ方をしているが、損得を考えるだけになるということだ。
そういう社会では、政治と軍事を重んじ、そして土木技術を求める。こういう社会はつまり、先ほど指摘した世界の知力が低下している証拠だという。
これは岡潔の言葉の一部を僕が要約しただけである。
スペインの哲学者オルテガが、大衆の典型を専門家であると言っている。専門知識という限定的知識を振りまくことに虚栄心を満たすのが大衆であり、その典型は自身が専門的知識があると自惚れる輩である。
またM・ウェーバーが、近代人を批判して、「精神のない専門人、心情なき享楽人」とも言う。専門家に「精神がない」とは、他者との共感の力がない、共苦を共にする力が養われていないということである。そのため「心情がない」のであるから、自身の心を作り上げられなかったために、「享楽人」として、享楽にのみ、つまり心理的な満足に終始する人物になると言うことだろう。
だから、僕がここで教養人というのは、知識があるだけではなく、その知識を自惚れることがなく、他者との共感を通して、心を作り上げてきた人物だと思う。
そして、この知識が共感共苦を通して、心で悟性を通して初めて、教養なのだと考える。
岡潔は、試験目当ての勉強は人間本来の道ではないと言っている。試験目当ての勉強をしてきた者は、情が足りないのだ。情とは、物事を感じて動く心の働きであるから、教養を作り出す力のことである。