結局、大西さんは除籍となった。
少し経緯を見ると、大西さんは自身の意見が正しいと主張していたようである。僕は反省しているのかと早合点してしまった。ところが、自身の意見に固執しており、それらの意見が正しいか正しくないかという二項対立的な考え方に収斂しているように見える。正しいか、正しくないかをのみ問うことには実に問題がある。
前回の僕のブログでは、そういう点をファンダメンタリズム(原理主義)として浮き彫りにした。ファンダメンタリズムは自身の信仰こそが正しいとするので、他の信仰を邪教として排除する。
ファンダメンタリズムは例外を認めない。あくまでその原理に忠実であらねばならない。そういう(神からの)命令である。実はヨーロッパではファンダメンタリズムが吹き荒れた時代がある。宗教改革後である。旧教であるカソリックも新教であるプロテスタントも同様であり、プロテスタントの方がより強くファンダメンタリズムである。
その結果何が起こったかというと、両者の血みどろの争いであったし、ヨーロッパの政治では、この両者の争いを乗り越えようという思想が生み出されて行く。その時代をコンフェッショナリズムという。ちなみに近代になって見つけられた1つの方策が寛容である。これは保守思想にも革新思想にも共通の土台となっている。
大西さんはどうもファンダメンタリズム的な思考に陥っているのではないかと思う。彼の経済政策をみると、彼は頭がいいのだろう。彼自身はその頭の良さの限界を認識していないのだろう。間違いがあるかもしれないという畏れを抱いてはいないだろう。あるいは固執し、自身の正しさにしがみついているのかもしれない。
れいわ新撰組の舩後議員の言葉を引用したいと思う。
「会に参加して下さった当事者の方の声を聞いてなお、大西氏は、当事者の痛みや恐怖に対して、理解されないまま自説を変えようとしませんでした。非常に残念です。
私の意見は、大西氏は除籍。ただし、今後もレクチャーを受ける権利は与える。これは「何度でも人生をやりなおせる社会を構築する」という党の理念にそうものです」
(https://yasuhiko-funago.jp/page-200716/より)
下線部を読むと、現状の判断から未来への可能性を排除しないという点で、まさに寛容の精神をみることができる。寛容を失えば、ただ正しいかいなかの結論不能な形而上で争うだけであり、不毛である。
大西さんを全面的に擁護する意見もあるようだが、彼らがファンダメンタリズム的な志向に陥らないことを期待したいと思う。