もう少しだけこの問題に言及しようかと思う。
勝手ながら敬愛する生物学者の池田清彦先生のツイートを転載する。
大西つねき、ダメだなコレは。存在するものは価値とは関係ないんだよ。全ての人間には生きる価値も無価値もありゃしねえよ。生きているという事実があるだけだ。それが全てだ。価値は生きている本人が考えりゃいいんであって、他人がごちゃごちゃ言うのは余計なお世話だ。 @IkedaKiyohiko 7月17日 |
的を得たTwitterだ。池田先生は「生きているという事実だけ」と言及しているが、僕なりに翻案すると、「生きているという事実」に価値を見出すか否かが今回の問題だ。そして、この価値の主体が誰になるのかというと、池田先生は自分自身であるという。
自身リバタリアンであるとおっしゃっていたと記憶しているが、ゆえに「自分で決めろ」と。背中合わせに「他人が出てくるな」と。そして、「政府が介入するな」ということだろう。僕自身はリバタリアンではないが、何でもかんでも「政府が介入する」のはおかしいと考える。そもそも内心の自由だろう。心まで法規制されたのではたまらない。
少し単純化しているかもしれないが、大西さんは自然の摂理で高齢者が先に死ぬので、その自然の摂理に従って政治家が法律を作ればいいと考えているようだ。まず自然の摂理と人間が作った法律がそもそも同じ原理であるとすれば、それは正しいことになる。
このような哲学で僕が思い出すのはトマス・アクィナスである。中世最大の哲学者だ。人定法(人間が制定する法)は自然の摂理(自然法)と一致する。一致しなければ人定法は腐敗している。こういう考えだ。このような法概念の基底にはキリスト教がある。
ところで、自然の摂理を人間は理解しているだろうか。高齢者が先に死ぬのが自然の摂理であるとすれば、若い人が死んでしまうのは自然の摂理に反している。これは自然の摂理とは何であるのかの不可知性の例になるが、トマス・アクィナスであれば、キリスト教に依拠すればいい。
では、大西さんは何になるのだろう。それは自然の摂理自体になっているとしかいえない。(https://www.tsune0024.jp/blog/7-17参照)
ゆえに近代では自然の摂理を安易に設定しない。自然科学の法則でさえ、あくまである一定の条件下で成立するのであり、基本的に仮説である。そういう科学哲学の基本を知るだけでも、安易に自然の摂理を実体化してはいけない。
ちなみに池田先生が自然科学で事実というときは、おそらく現象のことだろう。
池田先生と僕の考えには違いはある。そこについて議論するとすれば、長くなるし、リバタリアンとは違う僕の思想について述べなければならない。ゆえに面倒だからやめておく。
大西さんに関しては、自然の摂理を理解しているという前提に立った発言になっている点で、自身を超越的視点に置いているという問題があると僕は考える。
(この項終わりにします)