Drマサ非公認ブログ

サンデルのハーバード白熱教室の続きだなあ

 もう8年になるかと思う。ハーバード大学教授マイケル・サンデルの政治哲学の講義が白熱教室と言われ、日本でも注目を浴びたのは。その本は「これからの『正義』の話をしよう」だった。哲学におけるトロッコ問題を取り上げて、功利主義に対する批判を行う内容であった。

 触発された大学教員が同様の講義方法にトライしたが、生徒からの反応、相互作用が生じないと嘆いていたものだ。

 ちなみに僕もこのブログでトロッコ問題を取り上げたことがある。

 参考までに【テレビでトロッコ問題(前半〜追記)計4回】 

  前半https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/c35e36f2a275b24b4957acd2315d5c53

 

 Twitterを通じて、池田清彦先生が大西つねきさんの問題で以下のような発言をしている。

 

「命の選別、せざるを得ない時もあるよ。例えば、貴方と貴方の子のどちらか一人しか助からないとして、貴方はどうするか。どちらを選択しても、他人が口を挟む問題ではない。しかし、選別する基準をきめた途端に、正しい基準はなにかという議論が発生し、ついには権力が正しい基準を決めるようになる」

https://twitter.com/IkedaKiyohiko/status/1284500247004078080?s=20

 

 まさにこれはトロッコ問題の応用編である。

 近代社会は法社会である。そのため社会に問題があれば、その解決を政府に委ね、法的に処理しようとする。

 しかしながら、正義は法律で決定しきれないことがあるのだ。日本社会はそういう傾向に無頓着である。法律で決めた通りに行動すればいいのであれば、それは社会的規則(つまりコード)に従うだけであり、自由を奪われていることになる。つまり、ロボットと何ら変わらない。

 さて、池田先生のTweet、「貴方と貴方の子のどちらかを」選ぶことに対して、事前に法律で決められている社会に不気味さを感じないだろうか?池田先生は「権力が正しい基準を決める」ことに対してはっきりNOと言う。僕も賛同する。

 あるいは、二人の子供がいるとして、どちらかの子供を選ばなければならないとして、その選択が法律で決められているとしたら、どうだろうか?いちいち悩む必要もなく楽だとでも言えるだろうか?

 こういう選択不能な出来事の前で、僕たちは悩み苦しむのである。悩んだり、苦しむことこそ、人間の証とさえ言えるのである。どうして、それを「権力が正しい基準を決める」必要があろうか。何が正しいかを事前に決定しておくことの危険性がここにある。規則絶対主義は危うい。

 私たちはロボットではないので、決めないでおくこと(決定不能性)と共存する。これもまた知恵だと思う。

 大西つねきさんの話は終わりにしたつもりだったが、繋がってしまった。

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