テレビで所ジョージの『笑ってコラえて』を妻と一緒に見ていた。
その中で「愛を込めて花束を、の旅」というコーナーで、72歳のおじいちゃんが孫に花束を渡していた。そのおじいちゃんは若い頃に新聞奨学生をやり法政大学を卒業したという。
そして、その孫娘もまた新聞奨学生をやっているという、先日の地震でも、高層マンションの階段を使って新聞配達を行い、お客からも感謝されていると、おじいちゃんは孫娘の真っ当な成長を喜んでいた。
それを見ながら、思い出していた。僕もまた新聞奨学生をやっていたことを。新聞配達は大変だ。ましてや朝早い。午前3時には新聞が販売所に届く。
とはいえ、若い人たちの集まりでもあるから、大変だというだけではなく、若者らしい世界が構築されもするので、ばかな出来事が起きたりもするものだ。
さて、僕はこのテレビ番組の1コーナーを見ながら、日本は新聞奨学生を経験した人たちが幸せになれる社会なのだろうかと考えてしまっていた。別に新聞奨学生ではなくても、普通に頑張っている人たちが幸せになれる社会なのだろうかと。
新聞奨学生をやる若者の家は、学費が出せない家が多かった。あるいは、親の負担を減らそうと新聞奨学生をやる者もいたと記憶している。その意味で、貧しい家庭である傾向を持つ。
もちろん今も新聞奨学生であろう新聞配達を見かける。多分以前に比べれば、新聞をとる家庭は減少しているだろう。ましてや、新聞奨学生という“過酷”な仕事をしながら、頑張っていこうという若い人も減っているに違いない。そのせいかどうか外国人が増えているようにも感じている。
彼らのような人々が、それは僕も入るのだろうか?、幸せに生きていける社会であればと願うのだが。
あの72歳のおじいちゃんは幸せそうに見えた。孫娘は“普通”に生活しようとする人が幸せに生きていける社会に生きているのだろうか。ふと、そんなことが頭を巡った。