Drマサ非公認ブログ

ナショナリズムに関して少しばかり9

 このテーマの1で次のように定義しました。

「ナショナリズムとは、政治的な単位と民族的な単位が一致しなければならないと主張する政治的立場」。

 そして、民族的差異を軽視し、国民という一つの単位に統合しようとする政治を行います。しかしながら、民族意識は残ります。残るというより、歴史伝統に根ざすので、消すことはできません。

 例えば、北海道でアイヌ人差別があります。現代の日本では、アイヌであっても日本人である。そのため日本人と同じように扱うのは当然と考える人がいます。これはアイヌという民族的単位を消し去り、日本人という単一の国民に統合しようとするナショナリズムそのものです。

 2007年に国連で「先住民族に関する宣言」が採択されました。しかしながら、日本では「先住民」「先住民族」の定義を曖昧にし、アイヌを国連での採択に当たるか否かを曖昧にしていました。ちなみに国連は、沖縄の人々も先住民族と認めるように勧告しています。しかし、日本政府は認めていません。

 日本は現在アイヌを先住民族と認めました。その象徴がウポポイです。しかしながら、日本政府がパターナリズム(温情)で施設を作ってあげるかのような印象を持ってしまいます。

 ちなみに僕は北海道出身ですが、ナショナリズムからアイヌを語る人を見ると、先住民族とさえ認めないような、小さな事例を持ち出すことに腹が立ちます。なんせ「アイヌは存在しない」とまで宣うのですから。陰謀論者と変わりありません。

 ここで考えるべきは、アイヌに関して、日本のナショナリズムを適応すれば、アイヌ民族差別を繰り返し、あるいはアイヌの文化を尊重しないことになることです。近代になって生まれたナショナリズムを、より長い歴史のある民族に当たり前のように適応する姿に、横暴を見ないわけには行きません。

 先の国連の宣言は、そのような横暴を反省しようとの意図でできているのです。彼らの知恵に学ぶべきことは、数多くあるのです。

 それは近代において失われた、あるいは近代において問題としてあらわになった、人間と自然との関係でしょう。いえ、そもそも「人間と自然」と、「人間」と「自然」を異なる存在かのように記述したのですが、「人間」は「自然」に包摂されていますし、「人間」は「自然」の一部ですから、本質を見失った表現でさえあるでしょう。そこでこのような認識に反省をもたらすのが、先住民族の知恵でもあるのです。

 ところで、北海道出身の僕はアイヌの血が流れているのでしょうか。それとも純粋な大和民族でしょうか。なんだかよくわかりません。そもそも友達や知り合いの中に、血や伝統歴史を継承した人がいたに違いありません。

 そして、そういう無知の中で生きているのですが、このブログで取り上げたように、真っ当な保守思想でさえ、ナショナリズムや国家主義を認めることはないのですから、リベラルな人々だけの主張ではないのです。

 「アイヌは存在しない」という人は、保守でもリベラルでもない、カルトでしかありません。

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