Drマサ非公認ブログ

心はどこにあるのか

 僕たちは自然と心を全く違うと思っている。少しばかり哲学的にいうと、自然と心は違う実体であると。

 最近妻が家で鉢植えの世話をしている。なんの花だか、僕にはわからないが、少し芽が出始めている。それを見て妻は嬉しそうにしている。僕にも「見て」と言ってくる。鉢の1つにネギがあるようだ。それが伸びている。妻がベランダから僕に声をかけてくる。同じように、妻はその伸び具合を僕に説明しながら、嬉しそうにしている。

 僕も嬉しい。芽が出たり、ネギが伸びたりしているのが、僕は嬉しいのだろうか。いや、嬉しいのだ。しかしながら、妻が嬉しそうにしている姿もまた嬉しい。さらに芽が出たり、ネギが伸びたりしていることを嬉しがっている妻を見入ること自体もまた嬉しいのだ。

 どうして、芽が出たり、伸びたりすることが嬉しいのだろうか。なんか不思議に思うのだが、自然の中にある成長自体が喜ばしいことなんだろうとしか理解できないのだ。このような感情を情緒というのだろう。

 だから、情緒は人間の感情というだけではなく、自然もまた有する。いや自然が有しているからこそ、人間の根源は自然であるから、人間も有するのであろう。自然と人間、どっちが先かといえば、自然のようである。

 草花が成長していることは嬉しいのは、草花もそうだし、人間もそうだ。だから妻も僕も嬉しい。草花が枯れていたら、寂しかったり、悲しかったりするのであろう。この嬉しいや寂しいなど、様々な情緒は自然のリズムのような気がする。

 都市が発達し、人工物で人間が囲まれていると、自然とかけ離れるだけでなく、人間から自然の情緒やリズムが失われる。日本人が桜が咲くと特別な感情を持つのは、自然のリズム、つまりこの場合、季節の流れが情緒として、僕たちの文化であるからだろう。歳をとると、気づきやすくなるのだろう。

 僕たちは草花と人間を違う実在とみなし、妻と僕までも違う実在とみなし、自然の流れを忘れて、個を実在と取り違える。実在するのは、自然のリズムである。そして、これが心である。

 心がどこにあるのかといえば、そうなると、宇宙にあるし、地球にあるし、自然にあるし悠久の流れである。そして、それは人間にも流れている。

 だから、自然の中に心があるし、心の中に自然がある。そういう絶対矛盾の自己同一(西田幾多郎の哲学から)した世界が実在である。

 こんなことを書いたのは、妻のせいである(笑)

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