Drマサ非公認ブログ

自己啓発と反復可能性2/2

(前回からの続き)

 歴史は事実として規定できない。自然科学における自然現象は事実とすることに違和感は生じない。歴史は再現できないし、事実として規定できないから、モノの見方を変えなければならない。事実確認的ではないから解釈学としてのみ人の前に現れる。

 日本ではそれを鏡と称した。さて鏡を見るのは誰か?当然私です。ですから鏡として存在している歴史は、私自身のこと。歴史を見ることは私自身を知る経験となる。

 歴史は過去に起こった出来事を人の伝承や文字に書かれた書物、最近であれば映像を、それらの出来事を経験していない自分が目の前に存在するかのように経験することになる。これは経験していないことを、私が今思っていることなので、反復可能な現象とは全く違ったカテゴリーの出来事になる。

 繰り返されるならば、また繰り返されるだろうということで、同じようなことをする。あるいは失敗であれば、違うことをするという学びが成立する。牛乳瓶を落としたら割れたので、落としてはいけないと学べる。万有引力の法則が控えているから。そのような万有引力の法則を知らなくても、経験上反復することを知っているわけだ。

 繰り返すが、歴史は繰り返されない。歴史というものを表現している資料と触れ合い、それを経験したこともない私がそれについて思いを致す。どうやって行うのかというと、これまでの自分の経験、それに対してどのように思い考えたのかを動員して、自分のことのように歴史と相対するわけだ。人間が歴史と相対するのに可能な態度はこれしかあり得ない。ゆえに歴史は私が映った鏡なのです。ということは、歴史とは自分の思い、考え、行動、人生そのものである。歴史に思いを致すことは、自分の人生に思いを致すことと同義でしょう。

 ゆえに経験がない、自分自身を振り返ることがなければ、歴史は受験勉強の暗記科目のような様相になる。日本が敗戦したのは玉音放送の日であるとか、あるいはサンフランシスコ平和条約にサインした日であるかではなく、敗戦の歴史とは、その時に日本人の悲しみ、戦争の不条理や暴力性を私がどのように思い、考えるのかということだ。

 そういえば、自己啓発の話でした。例えば菅総理で自助という言葉が注目されているが、スマイルズの『自助論』が自助という考えを広めた先鞭である。この本は資本主義が発達して社会で成功した人物の話をまとめたもので、日本では『西国立志伝』として出版された。

 これはある個人に備わった性格とその時たまたまあった状況によって起きたことなので反復不可能だ。だから科学にはならない。その意味で歴史を読む行為に近い。それをこれが正しいと信じることは、自分自身が正しいとすることを鏡のように映しているだけである。

 真実の歴史なんてものはないように、正しい自己啓発も存在しない。

 僕が大学に入って、歴史学を履修したときに最初に習ったことだ。そういえば、東大から非常勤で来ていたと記憶している。名前は失念した。

 結局「歴史から学べ」とは「汝自身を知れ」ということになる。

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