森会長が「わきまえておられて」との発言を会見でした。組織委の女性は「わきまえている」らしい。そうではない集まりでの女性は「わきまえている」ことができないとなる。そういうご発言。
そこで揶揄して「#わきまえない女」がTwitterトレンド1位である。そりゃそうなるよね。
しかしだ、厳密に森さんの発言を紐解くと、「わきまえている」女性と「わきまえている」ことができない女性がいるので、女性にも色々あるとの認識が示されており、女性を女性であるという社会カテゴリーだけで位置付けていないので、なんと女性蔑視などしていないのである。な〜んてね。
そこで「わきまえる」に焦点を絞ってみよう。海外でも当然話題沸騰であるが、「わきまえる」は意訳され「自分の立場を理解している」とされているようだ。以前僕は自身のブログ「日本立場主義人民共和国」で立場主義を取り上げたことがある。日本人の規範として「立場」が絶対的だという問題を取り上げた。https://blog.goo.ne.jp/meix1012/e/a578b819d2a3332cfa4f29b15dfdbbbd
森会長ほどの立場にあるなら、彼は随分と偉い立場ということで、彼に関わる立場の人間たちは必ず下の立場になってしまう。ちなみに「わきまえる」のは何かというと「分」であるから、慣用句としては「分をわきまえる」だ。
つまり、人間関係に上下関係があらかじめ設定されていて、その上の者は上の立場で物事をおこない、下の者は下の立場で物事を行うという規範が決定しているわけだ。下の者は上の者に指示されなくても忖度するっていうやつだ。これが僕の言う立場主義だ。
元々は近世身分制社会での美徳とされ、社会規範として自明となっていたものだ。そのため「わきまえない」行動は社会規範からの逸脱として、批判や制裁の対象である。
森会長は「会長」なので、下々の者に「わきまえろ」と冗談めかしてさえ発言しているので、随分寛容な精神をお持ちになっているのだが、世の人々は「どうもこの規範を理解していないのだ」とそんな感慨の中のあるのだと思われる。
っていうか、封建時代か?ってツッコミが入るところだが、当の森会長は旧規範の住人のため、ご理解いただくことが、なかなかままならいのでしょう。
もちろん歴史的には明治以降、封建制や身分制度、身分意識は否定されている。そのため「分をわきまえる」こと自体が差別だという認識が広がっている。ただ制度としては「分をわきまえる」ことは弱体化してきたが、文化としてはどうだろうか。社会意識としては、どうだろうか?
実は我々もこういう「分をわきまえる」意識の住人ではないかと思うところがある。と同時に、やっと社会意識として「わきまえない」規範が自明になってきている「森発言現象」でもあると思う。男と女が立場によって社会の中で何をするのか自ずと決まっているという規範にヒビが入っていきた。
ヒビを入れるのは、旧規範では下の者として自ずと決められていた女性である。森会長を引きづり降ろしてくれ。
(つづく)