報恩という言葉があります。仏教用語とされています。
恩を報(し)る。仏教ですから、誰からの恩かといえば、当然仏様、阿弥陀如来様ということなのでしょう。阿弥陀様から、一生尽くしても返しきれないほどの恩を頂いている。そういう事実を報(し)る、ということのようですが、人間社会の誰がそんな事実に気づいて生きているというのでしょうか。
その事実に気づいた人物、親鸞聖人とか法然上人とか、まあそんな人物を思い出します。
当たり前の事実なのでしょう。私たちに人間が、というよりも万物が、宇宙の摂理が存在しているからこそ、存在しているわけです。宇宙の摂理と一応ここで言いましたが、これを実体化することなく無として名付けをすると、仏教では阿弥陀如来ということになるわけでしょう。
だから、私もあなたも阿弥陀如来の慈悲によって存在している、恩を受けている、そういうことでしょう。言葉で表現すると、その意味を受け止められるのかどうか難しいようにも思いますが、なんだか世界は宇宙はそうできている。命は与えられている。そんな感じでしょうか。
西欧では、ここまでの包括的な思想があるのだろうかと疑問に思うことがあります。実体化し、領域限定して語ると、恩は贈与として位置付けれらるのではないかと思います。
西欧における贈与では、どうしても自己なるものを中心として考察してしまうので、モースの贈与論になり、贈与を人間関係を構築する原理、あるいは義務とか道徳として位置付けるのだと考えられます。よって全体的給付の体系として、交換とは違う世界として理解されます。
僕も賛成です。しかしながら、どうしても社会に限定されるので、それを包摂する自然、さらに宇宙、もっと言えば神までは考察の対象から外れてしまうような気がするのです。
仏教的な恩は西欧思想において領域限定的であるがゆえに、社会科学の概念として非常に有効ではあったとして、人間存在を含めて、限定して操作的に位置付けることはできない、そう確信します。
贈与では社会から我々は何かを与えられていることに気づかせてくれます。しかし、社会は何かから与えられている、そういうことになるでしょう。
ですから、西欧的な学問を乗り越えること、領域横断的であること、知を無限定とすること、これらが求められると考えたりします。いまの学問、反省せよということですが。