まず亡くなった方お2人のご冥福を祈るととともに、怪我をされた17人の子供たちが元気になってくれることをただ願うばかりである。もちろん心の傷が癒されることを含めてだが、そのケアに当たる家族や学校関係者の心痛も早く癒されて欲しいものである。時間の経過とともに良い方向に向かってくれたらと思うし、支える共同性が十二分に発揮される社会であればと同時に思うところである。
僕はこの事件の報道を見ている中で感じたのは、僕だってちょっと間違えていたら、この犯人のような凶行に及ぶことがあり得たのではないかということだ。運が良いことに、そうはならなかった。この犯人のような状況に追い込まれることはなかったのは、運がいいだけなのかもしれない、そんなことを思っていた。
松本人志がこの犯人を「不良品」と批判していた。「不良品」という比喩は僕たち人間を工業製品とするものだから、人間を優良な製品と不良な製品とに二分する見方が彼の中で当然のようにインプットされているのだろうと思う。
もちろん「不良品」という比喩に対して、疑問が提示されることになるだろう。ただこの見方が、どうも引きこもりが「不良品」であるという考えに繋がりやすいように思われる。
僕だってちょっとしたタイミングの違いで、引きこもりになっていたに違いない。どんな人間でもそうなりうるのである。このような認識は前提である。でも、社会の中で引きこもりはマイノリティではある。そのため、大抵の人は引きこもりを特殊な人々程度に位置付けてしまう。
しかしながら、少し想像をめぐらせば、引きこもりになった人たちのきっかけや家庭を含めた環境を思い起こせば、実に普通の人々に過ぎない。僕もまた”普通”の人なんだろうから、ちょっとしたタイミングで引きこもりのような状態になり、タイミングが悪いことに、そこから抜け出せないということもあったに違いない。
「不良品」との言い方に反対するけれども、あえてこの表現を利用すれば、ちょっとしたタイミングで、僕も「不良品」になっていたに違いない。いや、ひょっとして「不良品」なのかもしれない。一応断っておくけれど、引きこもりの犯罪率は低い。
「不良品」と僕たちは簡単に人に名付けることがあるだろう。その時僕たちが見失っているのは、かの犯人を異質な存在として排除し、全くの他者として位置付けることである。他者だから僕たちには関係がない存在として位置付け、僕たち自身は安心な場所にいると位置付けることができるわけである。
善人が行う意識の政治である。
僕たちは優良品であるとして安心していることができる。いや、優良品では工業製品に過ぎないことになってしまうのだから、普通の人ということである。
(つづく)