松本人志の性加害問題。文春の丁寧な報道。
ジャニー喜多川の問題、伊藤詩織さんの問題などなど、性に関わる社会問題、根源的問題が日本社会でも広がっている。これらは欧米などで繰り広げられたMe too運動に連なっているように思う。とはいえ、日本のそれは社会の側、特に力を持つ側の反応が鈍い。
いや、一般の人々も、大衆もメディアの中の風景として、そこにある問題への気づきを見出しているのかどうか、僕には自信がない。そこに日本社会の問題が現れているのだろう。
ついに仏教界にも性加害問題が噴出している。引用させてもらう。
日本宗教界でも、尼僧に性加害。なんだかわけのわからない宗教的見地を持ち出す。
「お観音さんがエッチしてくれるにやったら、こっちはいらんのや。これが坊さんという役目や。仏さんはエッチしてくれんよ。でもエッチで悩んでいる人がおったら、お前が代わりにエッチしてやらないかんと言われるんや」
悩みとはいうが、単に欲望の肯定でしかなく、煩悩にまみれる人間をどのように導くのか、そういう問いを仏教はしてくれていたはずなんだけれど。ブッダがこんなこと言ったのでしょうか。それとも伝教大師最澄の尊い教えなのでしょうか?
性行為の強要、恫喝、暴力、これが仏教の教えだとしたら、こんなものいらない。大僧正は彼女(尼僧)に僧侶に従うように指示したそうだ。なんと尊い言葉か(もちろん皮肉)。
彼女は警察に告訴したが、結果不起訴。これが日本の実情である。神も仏も無いよ。
性は人間の根本。性とは、触れること、その土台としての身体である。そこに人間の関係性(仏教的には縁だろう)が作り為される。だからこそ、繰り返しだが、人間の根本。人間は人ではなく、人と人の間(関係)である。そこにかけがえのなさが、唯一性がある。
そのような「他者と関係を作り、その関係が新たな私を作る」という人間の自明な事実に対して、暴力、あるいは暴力的であることは、人間であることの原点への侵害である。
本当に性加害があった事実を問う以前に人間への理解が必要であることを強調したい。社会全体で、そういう自明性に開かれることをただ願う。