我的三国演義~第五巻『呂布の最期』
この巻の主な出来事です。
195年(興平2年) 『曹操』、「定陶」と「鉅野」で『呂布』を破る。
『呂布』、『劉備』を頼り“徐州”へ。
196年(建安元年) 『曹操』、「献帝」を「洛陽」に迎え、「許」を都とし「献帝」を「許」に移す。
『劉備』、『呂布』に“徐州”を奪われ、『曹操』のもとに身を寄せる。
198年(建安3年) 『曹操』、「下邳」で『呂布』を処刑する。
192年『董卓』が『呂布』「王允」らによって暗殺された際、「李カク」「郭」らは遠征していましたが、軍師の「賈詡」の進言を容れて『董卓』の報復に乗り出し、「王允」を殺害して「長安」を奪回しました。
そして、「李カク」と「郭」は共に中央政治を思うがままに牛耳りました。
この2人の専横は、かつての主君『董卓』をはるかに凌ぐ悪政で、「長安」では多数の死者、流民が出たと言われています。
同僚で幼馴染の「李カク」と「郭」は酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲でした。
しかし、「李カク」が「郭」に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになります。
この2人が争っているのを見て、195年「張済」は2人の争いを仲裁し、「献帝」を「弘農」に送ることとなりました。
「弘農」は「洛陽」からも比較的近いところにあり、望郷への思いを断ち切れずにいた「献帝」はすぐに「弘農」に向け出発しました。
ですが、「郭」は「献帝」の護衛中に乱心して官軍に対して攻撃を仕掛けます。
「李カク」や「張済」を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込みましたが、「献帝」を捕らえる事は出来ませんでした。
その後、錦の御旗を失った「郭」は衰退し、山賊に身を落とし部下の「伍習」に裏切られて殺されて、その首は『曹操』のもとへ送られました。
“三国演義”では「献帝」は自力で脱出し、「李カク」と「郭」が和睦して「献帝」を追いかける事になっています。
帝の一行は執拗な追撃を振り切るため、御車に積まれた衣類、装飾品、財宝などをばら撒きながら敵兵の注意をそらしました。
その後「献帝」救援に駆けつけた『曹操』軍に惨敗するということになっています。
黄河を渡った「帝」の一行は、ひとまず「安邑」に落ち着きました。
ところが「安邑」ではこの年、いなごの大群が押し寄せたほか、干ばつの被害があり、食糧が底をついてしまったのです。
そこで「帝」の側近の「董承」は「帝」を「洛陽」までお連れすることにしました。
こうしてようやく「帝」一行は「洛陽」に到着しました。
しかし「洛陽」は『董卓』に焼き尽くされてからというもの昔日の面影をとどめてはいませんでした。
「帝」が雨をしのぐ場所すらなく、飢えで死ぬ者も多くいたといいます。
曹操孟徳(155年 - 220年)
196年8月『曹操』は腹心の「董昭」の進言で「献帝」を迎えるため、自ら「洛陽」に向かいました。
そして新たな都を「許」に定め、『曹操』の掌中に「献帝」という切り札が握られたのです。

呂布奉先(生年不詳 - 198年)
さて『曹操』に“兗州”を奪い返され、“徐州”の『劉備』を頼った『呂布』はどうなったのか?
194年『劉備』は“徐州牧”になりました。
『呂布』らが『曹操』に敗北して“徐州”に転がり込んで来たのは、195年のことでした。
初め『関羽』や『張飛』は『呂布』を迎え入れることに大反対しましたが、『劉備』は領地を持たない侘しさを分かっていました。
『劉備』も「安喜県」の“尉”の職を捨ててからというもの、流浪したり、「公孫瓚」など親交のある諸侯の世話になったりしていたのです。
譲られて“徐州牧”になったとは言え、『劉備』にとっても、ようやく落ち着くことが出来る領地を手に入れられたのです。
対『董卓』軍の時は敵対していた『呂布』でしたが、『劉備』は『呂布』を厚くもてなし、『呂布』に「小沛」を任せました。
そして、196年「寿春」の『袁術』が“徐州”を奪おうと兵を向けてきました。
『劉備』は『張飛』を「下邳」に残し、『袁術』軍と「淮陰」の「石亭」で対戦しましたが、飢饉で兵糧が調達できず苦戦します。
劉備玄徳
関羽雲長
袁術 in 淮陰
張飛益徳(165年 - 221年)
そこへ『張飛』がやって来て、「下邳城」を『呂布』に奪われたことを報告しました。
留守を言いつかった『張飛』は酒の誘惑に負け、酒癖が悪かったため「曹豹」(同じく『劉備』配下の武将)に酒を無理強いし、体罰を与えます。
「曹豹」は『張飛』への恨みから寝返り、『呂布』を城内に入れたのでした。
『劉備』はその後、「徐州」に戻り『呂布』と和睦しました。
『呂布』は『劉備』を「小沛」の城に入れると、みずから“徐州刺史”を名乗りました。
実質上『呂布』は“徐州”を奪い取ったのです。
かつて『呂布』を厄介者扱いした『袁術』ですが、今度は態度を豹変させ兵糧や武器を提供して『呂布』を喜ばせました。
『呂布』を懐柔した『袁術』は配下の「紀霊」に3万の兵を与え、『劉備』を再び攻撃したため『劉備』は『呂布』に援軍を求めました。
板挟みになった『呂布』は「紀霊」の陣を訪ねると門番に1本の戟を掲げさせ、「わしがここからあの戟を1発で射当てたら、兵を引いてくれないか?」と言いました。
いくら『呂布』でもケシ粒ほどしか見えない的に射当てるのは無理だろう、と「紀霊」は承諾しましたが、『呂布』は見事に射当て、両軍とも兵を引き上げたのです。
三国史跡紹介・其之十四~呂布射戟台&呂布射戟雕像(詳しくは2007年8月16日と2008年4月4日のブログを参照してね)


まず「呂布射戟台」は「江蘇省徐州市沛県東風路57号」の「沛県文化館」内にあります。
『呂布』は『劉備』軍と「紀霊」軍を仲裁するために、この円形の台に乗って弓を射たと言われています。
「呂布射戟台」の到達難易度は「C」かな。
この「沛県文化館」がどれだか分かりませんでした。
この記事を見て行かれる方は「沛県文化館」の写真を載せたので分かり易いと思います。


「江蘇省宿遷市泗洪県魏営鎮」の「農機大院」の中庭には、「呂布射戟雕像」があります。
後の調査で『劉備』軍と「紀霊」軍が対峙した「淮陰」は「宿遷市泗洪県」に近いので、案外『呂布』が『劉備』と「紀霊」を仲裁した地は、こっちかも知れません。
この「呂布射戟雕像」への到達難易度は「B」かな。
「魏営鎮」に行くミニバスは「泗洪汽車站」と違う場所から出ているのと、「農機大院」は終点(魏営鎮)から2~3分歩くんですが、どの建物か知らないと行けないしね。
「農機大院」の写真も掲載したので、行かれる方は参考にしてくださいね。
…以上。
夏侯惇元譲(生年不詳 - 220年)
『呂布』の計らいによって救われた『劉備』でしたが、しばらくして『張飛』が『呂布』の馬数百頭を盗むという事件を起こします。
『劉備』は『呂布』の報復を恐れ、『曹操』の下に逃れました。
その後『劉備』は“豫州牧”に任命されますが、『曹操』の策で再び「小沛」に戻ることになりました。
198年『袁紹』が北方を平定しようとしている隙をみて、『曹操』は『劉備』と共に『呂布』討伐計画を立てますが、計画が『呂布』に洩れ、ついに『呂布』が「小沛」に攻めてきました。
『劉備』軍は『呂布』軍の猛攻に敗走を余儀なくされました。
『劉備』は『曹操』に助けを求め、『曹操』はこれに応じ「夏侯惇」を援軍に遣わしますが、『呂布』の武将「高順」に敗北します。
「夏侯惇」はこの戦で左目に矢を受けてしまい、矢を抜くときに目玉まで抜けてしまいましたが「夏侯惇」は「親からもらった目玉、捨てられるか」と叫び、食べてしまったというエピソードが“三国演義”に記されています。
同族で同じく『曹操』配下の「夏侯淵」と区別するために“盲夏侯”とあだ名されました。
そして『曹操』も自ら兵を率いて進軍し、「梁」国の国境付近で敗走した『劉備』軍と合流し、ともに「下邳」に向かいました。
“三国演義”では「徐州城」にいた『呂布』は『曹操』軍と戦うために城を出ました。
そこで『呂布』は「陳珪」「陳登」親子の策にはまり、まず妻子を「下邳城」に移しました。
そして「徐州城」の留守を預かった「陳珪」に城を取られ、「小沛城」も「陳登」に取られてしまいました。
元々「陳珪」「陳登」親子は「陶謙」に仕えており、その「陶謙」が『劉備』に託した「徐州」を奪った『呂布』を許せなかったのです。
「陳親子」の策により『呂布』は「下邳城」にしか行き場がなくなり、「下邳」に立てこもったのです。
『呂布』は『曹操』の出撃の報せに降伏を決めますが「陳宮」が反対します。
そこでやむなく『袁術』に援軍を頼むことにしましたが、『袁術』は「娘をよこさなければ援軍を出さない」とのことでした。
以前より『袁術』は『呂布』との軍事的結びつきを強くする目的で、息子と『呂布』の娘との縁談を申し入れていたのです。
しかし『袁術』と『呂布』の同盟を快く思わなかったのが「陳珪」と「陳登」の親子でした。
「陳珪」は『呂布』に「袁術は近頃天子を僭称しているとか。これは天下の逆臣であり、今袁術と組むことはためになりませぬ」と説得していました。
『袁術』は『孫策』から受け取った「玉璽」を手に、197年みずから「皇帝」を僭称していました。
しかし『呂布』もこうなっては『袁術』を頼るほかなく、娘を綿でくるみ、夜にまぎれて『袁術』のもとに送り届けようとしましたが、『曹操』軍に気付かれ、大量の矢を浴びせられたため、『呂布』は娘を連れて城に引き返します。
198年11月『袁術』からの援軍もなく、「下邳」の『呂布』は孤立無援となりました。
「陳宮」は「今曹操軍は疲れており持久戦は不可能です。まず将軍が城を出て曹操軍と戦い、私が城を守ります。そして将軍が攻められたら私が敵の背後をつき、城が攻められたら将軍が外から救援してください」と進言しました。
『呂布』はその意見に賛同し、出陣しようとすると『呂布』の妻がそれを止めました。
「陳宮はあれほど曹操に大事にされていながら、彼を裏切ったではありませんか。そのような男に城を任せるなど、とんでもありません」と。
『呂布』は妻の一言で、「陳宮」の計画を断念したのです。
『曹操』軍は「荀」、「郭嘉」らの進言により、近くを流れる泗水と沂水を決壊させ、水攻めにする作戦で『呂布』軍をじりじりと締め上げました。
城内にいる『呂布』の諸将は次第に上下の気持ちが離れ離れになっていきました。
「三国演義」では『呂布』が禁酒令を出したにも関わらず、猪肉と酒で兵の鋭気を養おうとした「侯成」が『呂布』の逆鱗に触れました。
そして『呂布』の有力な将軍らが「陳宮」を縛り上げ、その軍勢を率いて降伏してきました。
『呂布』は直属の部下とともに城門の楼に登り、防戦しようとしましたが防ぎきれず、戦闘を断念して『曹操』に降伏したのでした。
かつて「丁原」、『董卓』を裏切ってきた『呂布』でしたが、最期は部下の裏切りによって人生の幕を閉じることとなったのです…。
生け捕りにされた『呂布』は『曹操』の前に引き出されると、「縄目がきつすぎる。少し緩めてくれ」と頼みました。
「虎を縛るのだから、緩めるわけにはいかない」と言う『曹操』。
『呂布』は「もう降伏したのだから心配する必要ないでしょう。それより私に騎兵隊を与えたなら、天下平定はもっとたやすくなるでしょう」と言いました。
このとき『曹操』の顔に迷いの色が現れましたが、側にひかえていた『劉備』が「曹操どの、この男はかつて丁原、董卓に仕えながら、2人を裏切りました。その事実をお忘れなきように」と進言したのです。
これを聞いた『呂布』は「この男こそ、いちばん信頼できないのだぞ!」と声を荒げ、叫びました。
『曹操』ははじめ『呂布』の武勇に未練がありましたが、『劉備』の一言でためらいを払拭します。
そして部下に処刑を命じました…。
三国史跡紹介・其之十五~下邳古城・白門楼(詳しくは、2008年4月5日のブログを参照してね)
『呂布』が『曹操』に捕らえられ、処刑された「下邳城」址が残るのは、「江蘇省徐州市睢寧県古邳鎮」です。


俺は前日に宿泊していた「江蘇省宿遷市」から「江蘇省徐州市睢寧県」までバスで移動し、「睢寧県」から「古邳鎮」行きのバスに乗り換えて行きました。
「睢寧県」(終点)で下車後は輪タクを使いましたが、行き方が分かれば歩けなくもない…かな。
到達難易度は「C」かな。
…以上
『曹操』はまた、かつての部下「陳宮」の参謀としての才能を惜しみました。
かつて『董卓』暗殺に失敗し、「洛陽」を追われた『曹操』を助けた「陳宮」でしたが、その後『呂布』と組み『曹操』と敵対した「陳宮」も『呂布』と同じく絞首刑にされ、首がさらされました…。
198年12月、「後漢」末の戦乱期、最強と言われた『呂布』が消え、『曹操』勢力が拡大し始めることになります。
ちなみに、このとき『呂布』軍の騎兵隊長であった『張遼』は刑を免れ、その後『曹操』軍の一将軍として活躍することになります。
三国史跡紹介・其之十六~呂布墓(未到達)
『呂布』の墓は「河南省焦作市修武県郇封鎮蘭封村」にあるそうです。
“正史”によれば「陳宮、高順らとともにさらし首にされて「許」に送られ、その後埋葬された」とあるようですが、具体的な埋葬地には触れられていないらしく、この墓陵も本物かどうか微妙ですね。
墓碑・墓石なども無いので、やっぱ“言い伝え”でしょうか…?
三国史跡紹介・其之十七~呂布像(未到達)
“三国志”の最強武将「馬中赤兎、人中呂布」と言われた『呂布奉先』が生まれたのは、現在の「内蒙古自治区巴彦淖尓市五原県」です。

この「五原県」には高さ8mの『呂布』像(写真は中国のサイトから)があります。
「内蒙古」に行く機会があれば、ぜひ「五原県」に行って、この『呂布』像を見てみたいですね…。
…以上

『呂布』が殺され、『袁術』が脱落し、天下争奪の有力候補は「北方」に勢力をはる『袁紹』、「中原」に勢力をはる『曹操』、および“荊州”に拠る「劉表」、“益州”に拠る「劉璋」、“揚州”に拠る『孫策』、そして“豫州牧”の『劉備』といったところに絞られてきました。
「第六巻」では、196年『曹操』が「献帝」及び“都”を「許」に遷都した頃にさかのぼります。
では、お楽しみに

この巻の主な出来事です。

195年(興平2年) 『曹操』、「定陶」と「鉅野」で『呂布』を破る。
『呂布』、『劉備』を頼り“徐州”へ。
196年(建安元年) 『曹操』、「献帝」を「洛陽」に迎え、「許」を都とし「献帝」を「許」に移す。
『劉備』、『呂布』に“徐州”を奪われ、『曹操』のもとに身を寄せる。
198年(建安3年) 『曹操』、「下邳」で『呂布』を処刑する。
192年『董卓』が『呂布』「王允」らによって暗殺された際、「李カク」「郭」らは遠征していましたが、軍師の「賈詡」の進言を容れて『董卓』の報復に乗り出し、「王允」を殺害して「長安」を奪回しました。
そして、「李カク」と「郭」は共に中央政治を思うがままに牛耳りました。
この2人の専横は、かつての主君『董卓』をはるかに凌ぐ悪政で、「長安」では多数の死者、流民が出たと言われています。
同僚で幼馴染の「李カク」と「郭」は酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲でした。
しかし、「李カク」が「郭」に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになります。
この2人が争っているのを見て、195年「張済」は2人の争いを仲裁し、「献帝」を「弘農」に送ることとなりました。
「弘農」は「洛陽」からも比較的近いところにあり、望郷への思いを断ち切れずにいた「献帝」はすぐに「弘農」に向け出発しました。
ですが、「郭」は「献帝」の護衛中に乱心して官軍に対して攻撃を仕掛けます。
「李カク」や「張済」を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込みましたが、「献帝」を捕らえる事は出来ませんでした。
その後、錦の御旗を失った「郭」は衰退し、山賊に身を落とし部下の「伍習」に裏切られて殺されて、その首は『曹操』のもとへ送られました。
“三国演義”では「献帝」は自力で脱出し、「李カク」と「郭」が和睦して「献帝」を追いかける事になっています。
帝の一行は執拗な追撃を振り切るため、御車に積まれた衣類、装飾品、財宝などをばら撒きながら敵兵の注意をそらしました。
その後「献帝」救援に駆けつけた『曹操』軍に惨敗するということになっています。
黄河を渡った「帝」の一行は、ひとまず「安邑」に落ち着きました。
ところが「安邑」ではこの年、いなごの大群が押し寄せたほか、干ばつの被害があり、食糧が底をついてしまったのです。
そこで「帝」の側近の「董承」は「帝」を「洛陽」までお連れすることにしました。
こうしてようやく「帝」一行は「洛陽」に到着しました。
しかし「洛陽」は『董卓』に焼き尽くされてからというもの昔日の面影をとどめてはいませんでした。
「帝」が雨をしのぐ場所すらなく、飢えで死ぬ者も多くいたといいます。

196年8月『曹操』は腹心の「董昭」の進言で「献帝」を迎えるため、自ら「洛陽」に向かいました。
そして新たな都を「許」に定め、『曹操』の掌中に「献帝」という切り札が握られたのです。


さて『曹操』に“兗州”を奪い返され、“徐州”の『劉備』を頼った『呂布』はどうなったのか?
194年『劉備』は“徐州牧”になりました。
『呂布』らが『曹操』に敗北して“徐州”に転がり込んで来たのは、195年のことでした。
初め『関羽』や『張飛』は『呂布』を迎え入れることに大反対しましたが、『劉備』は領地を持たない侘しさを分かっていました。
『劉備』も「安喜県」の“尉”の職を捨ててからというもの、流浪したり、「公孫瓚」など親交のある諸侯の世話になったりしていたのです。
譲られて“徐州牧”になったとは言え、『劉備』にとっても、ようやく落ち着くことが出来る領地を手に入れられたのです。
対『董卓』軍の時は敵対していた『呂布』でしたが、『劉備』は『呂布』を厚くもてなし、『呂布』に「小沛」を任せました。
そして、196年「寿春」の『袁術』が“徐州”を奪おうと兵を向けてきました。
『劉備』は『張飛』を「下邳」に残し、『袁術』軍と「淮陰」の「石亭」で対戦しましたが、飢饉で兵糧が調達できず苦戦します。




そこへ『張飛』がやって来て、「下邳城」を『呂布』に奪われたことを報告しました。
留守を言いつかった『張飛』は酒の誘惑に負け、酒癖が悪かったため「曹豹」(同じく『劉備』配下の武将)に酒を無理強いし、体罰を与えます。
「曹豹」は『張飛』への恨みから寝返り、『呂布』を城内に入れたのでした。
『劉備』はその後、「徐州」に戻り『呂布』と和睦しました。
『呂布』は『劉備』を「小沛」の城に入れると、みずから“徐州刺史”を名乗りました。
実質上『呂布』は“徐州”を奪い取ったのです。
かつて『呂布』を厄介者扱いした『袁術』ですが、今度は態度を豹変させ兵糧や武器を提供して『呂布』を喜ばせました。
『呂布』を懐柔した『袁術』は配下の「紀霊」に3万の兵を与え、『劉備』を再び攻撃したため『劉備』は『呂布』に援軍を求めました。
板挟みになった『呂布』は「紀霊」の陣を訪ねると門番に1本の戟を掲げさせ、「わしがここからあの戟を1発で射当てたら、兵を引いてくれないか?」と言いました。
いくら『呂布』でもケシ粒ほどしか見えない的に射当てるのは無理だろう、と「紀霊」は承諾しましたが、『呂布』は見事に射当て、両軍とも兵を引き上げたのです。



まず「呂布射戟台」は「江蘇省徐州市沛県東風路57号」の「沛県文化館」内にあります。
『呂布』は『劉備』軍と「紀霊」軍を仲裁するために、この円形の台に乗って弓を射たと言われています。
「呂布射戟台」の到達難易度は「C」かな。
この「沛県文化館」がどれだか分かりませんでした。
この記事を見て行かれる方は「沛県文化館」の写真を載せたので分かり易いと思います。



「江蘇省宿遷市泗洪県魏営鎮」の「農機大院」の中庭には、「呂布射戟雕像」があります。
後の調査で『劉備』軍と「紀霊」軍が対峙した「淮陰」は「宿遷市泗洪県」に近いので、案外『呂布』が『劉備』と「紀霊」を仲裁した地は、こっちかも知れません。

この「呂布射戟雕像」への到達難易度は「B」かな。
「魏営鎮」に行くミニバスは「泗洪汽車站」と違う場所から出ているのと、「農機大院」は終点(魏営鎮)から2~3分歩くんですが、どの建物か知らないと行けないしね。
「農機大院」の写真も掲載したので、行かれる方は参考にしてくださいね。

…以上。

『呂布』の計らいによって救われた『劉備』でしたが、しばらくして『張飛』が『呂布』の馬数百頭を盗むという事件を起こします。
『劉備』は『呂布』の報復を恐れ、『曹操』の下に逃れました。
その後『劉備』は“豫州牧”に任命されますが、『曹操』の策で再び「小沛」に戻ることになりました。
198年『袁紹』が北方を平定しようとしている隙をみて、『曹操』は『劉備』と共に『呂布』討伐計画を立てますが、計画が『呂布』に洩れ、ついに『呂布』が「小沛」に攻めてきました。
『劉備』軍は『呂布』軍の猛攻に敗走を余儀なくされました。
『劉備』は『曹操』に助けを求め、『曹操』はこれに応じ「夏侯惇」を援軍に遣わしますが、『呂布』の武将「高順」に敗北します。
「夏侯惇」はこの戦で左目に矢を受けてしまい、矢を抜くときに目玉まで抜けてしまいましたが「夏侯惇」は「親からもらった目玉、捨てられるか」と叫び、食べてしまったというエピソードが“三国演義”に記されています。

同族で同じく『曹操』配下の「夏侯淵」と区別するために“盲夏侯”とあだ名されました。
そして『曹操』も自ら兵を率いて進軍し、「梁」国の国境付近で敗走した『劉備』軍と合流し、ともに「下邳」に向かいました。
“三国演義”では「徐州城」にいた『呂布』は『曹操』軍と戦うために城を出ました。
そこで『呂布』は「陳珪」「陳登」親子の策にはまり、まず妻子を「下邳城」に移しました。
そして「徐州城」の留守を預かった「陳珪」に城を取られ、「小沛城」も「陳登」に取られてしまいました。
元々「陳珪」「陳登」親子は「陶謙」に仕えており、その「陶謙」が『劉備』に託した「徐州」を奪った『呂布』を許せなかったのです。
「陳親子」の策により『呂布』は「下邳城」にしか行き場がなくなり、「下邳」に立てこもったのです。
『呂布』は『曹操』の出撃の報せに降伏を決めますが「陳宮」が反対します。
そこでやむなく『袁術』に援軍を頼むことにしましたが、『袁術』は「娘をよこさなければ援軍を出さない」とのことでした。
以前より『袁術』は『呂布』との軍事的結びつきを強くする目的で、息子と『呂布』の娘との縁談を申し入れていたのです。
しかし『袁術』と『呂布』の同盟を快く思わなかったのが「陳珪」と「陳登」の親子でした。
「陳珪」は『呂布』に「袁術は近頃天子を僭称しているとか。これは天下の逆臣であり、今袁術と組むことはためになりませぬ」と説得していました。
『袁術』は『孫策』から受け取った「玉璽」を手に、197年みずから「皇帝」を僭称していました。
しかし『呂布』もこうなっては『袁術』を頼るほかなく、娘を綿でくるみ、夜にまぎれて『袁術』のもとに送り届けようとしましたが、『曹操』軍に気付かれ、大量の矢を浴びせられたため、『呂布』は娘を連れて城に引き返します。
198年11月『袁術』からの援軍もなく、「下邳」の『呂布』は孤立無援となりました。
「陳宮」は「今曹操軍は疲れており持久戦は不可能です。まず将軍が城を出て曹操軍と戦い、私が城を守ります。そして将軍が攻められたら私が敵の背後をつき、城が攻められたら将軍が外から救援してください」と進言しました。
『呂布』はその意見に賛同し、出陣しようとすると『呂布』の妻がそれを止めました。
「陳宮はあれほど曹操に大事にされていながら、彼を裏切ったではありませんか。そのような男に城を任せるなど、とんでもありません」と。
『呂布』は妻の一言で、「陳宮」の計画を断念したのです。
『曹操』軍は「荀」、「郭嘉」らの進言により、近くを流れる泗水と沂水を決壊させ、水攻めにする作戦で『呂布』軍をじりじりと締め上げました。
城内にいる『呂布』の諸将は次第に上下の気持ちが離れ離れになっていきました。
「三国演義」では『呂布』が禁酒令を出したにも関わらず、猪肉と酒で兵の鋭気を養おうとした「侯成」が『呂布』の逆鱗に触れました。
そして『呂布』の有力な将軍らが「陳宮」を縛り上げ、その軍勢を率いて降伏してきました。
『呂布』は直属の部下とともに城門の楼に登り、防戦しようとしましたが防ぎきれず、戦闘を断念して『曹操』に降伏したのでした。
かつて「丁原」、『董卓』を裏切ってきた『呂布』でしたが、最期は部下の裏切りによって人生の幕を閉じることとなったのです…。
生け捕りにされた『呂布』は『曹操』の前に引き出されると、「縄目がきつすぎる。少し緩めてくれ」と頼みました。
「虎を縛るのだから、緩めるわけにはいかない」と言う『曹操』。
『呂布』は「もう降伏したのだから心配する必要ないでしょう。それより私に騎兵隊を与えたなら、天下平定はもっとたやすくなるでしょう」と言いました。
このとき『曹操』の顔に迷いの色が現れましたが、側にひかえていた『劉備』が「曹操どの、この男はかつて丁原、董卓に仕えながら、2人を裏切りました。その事実をお忘れなきように」と進言したのです。
これを聞いた『呂布』は「この男こそ、いちばん信頼できないのだぞ!」と声を荒げ、叫びました。
『曹操』ははじめ『呂布』の武勇に未練がありましたが、『劉備』の一言でためらいを払拭します。
そして部下に処刑を命じました…。

『呂布』が『曹操』に捕らえられ、処刑された「下邳城」址が残るのは、「江蘇省徐州市睢寧県古邳鎮」です。


俺は前日に宿泊していた「江蘇省宿遷市」から「江蘇省徐州市睢寧県」までバスで移動し、「睢寧県」から「古邳鎮」行きのバスに乗り換えて行きました。
「睢寧県」(終点)で下車後は輪タクを使いましたが、行き方が分かれば歩けなくもない…かな。
到達難易度は「C」かな。

…以上
『曹操』はまた、かつての部下「陳宮」の参謀としての才能を惜しみました。
かつて『董卓』暗殺に失敗し、「洛陽」を追われた『曹操』を助けた「陳宮」でしたが、その後『呂布』と組み『曹操』と敵対した「陳宮」も『呂布』と同じく絞首刑にされ、首がさらされました…。
198年12月、「後漢」末の戦乱期、最強と言われた『呂布』が消え、『曹操』勢力が拡大し始めることになります。
ちなみに、このとき『呂布』軍の騎兵隊長であった『張遼』は刑を免れ、その後『曹操』軍の一将軍として活躍することになります。

『呂布』の墓は「河南省焦作市修武県郇封鎮蘭封村」にあるそうです。
“正史”によれば「陳宮、高順らとともにさらし首にされて「許」に送られ、その後埋葬された」とあるようですが、具体的な埋葬地には触れられていないらしく、この墓陵も本物かどうか微妙ですね。
墓碑・墓石なども無いので、やっぱ“言い伝え”でしょうか…?


“三国志”の最強武将「馬中赤兎、人中呂布」と言われた『呂布奉先』が生まれたのは、現在の「内蒙古自治区巴彦淖尓市五原県」です。

この「五原県」には高さ8mの『呂布』像(写真は中国のサイトから)があります。
「内蒙古」に行く機会があれば、ぜひ「五原県」に行って、この『呂布』像を見てみたいですね…。
…以上

『呂布』が殺され、『袁術』が脱落し、天下争奪の有力候補は「北方」に勢力をはる『袁紹』、「中原」に勢力をはる『曹操』、および“荊州”に拠る「劉表」、“益州”に拠る「劉璋」、“揚州”に拠る『孫策』、そして“豫州牧”の『劉備』といったところに絞られてきました。
「第六巻」では、196年『曹操』が「献帝」及び“都”を「許」に遷都した頃にさかのぼります。
では、お楽しみに


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