我的三国演義~第七巻『千里走単騎』
この巻の主な出来事です。
200年(建安5年) 『曹操』、『劉備』を攻撃。
『劉備』、“冀州”の『袁紹』のもとに身を寄せる。
『官渡の戦い』で『曹操』が『袁紹』を破る。
201年(建安6年) 『劉備』、“荊州”の「劉表」のもとに身を寄せる。
202年(建安7年) 『袁紹』病死。
207年(建安12年) 『曹操』河北を平定する。
曹操孟徳(155年 - 220年)
200年、ついに『曹操』みずから『劉備』討伐に出陣して来ました。
「小沛」にいた『劉備』と『張飛』らは敗走し、『劉備』は“冀州”の『袁紹』の下に逃れ、『張飛』は行方不明になりました。
一方「下邳」の城を任されていた『関羽』も城外の山に追い詰められます。
かねてより『関羽』の人柄と武勇に惹かれていた『曹操』は、何としても『関羽』を配下に加えたいと考えていました。
“三国演義”では、かつて『呂布』の部下であった『張遼』が、『曹操』に『関羽』説得を願い出ます。
『張遼』は『呂布』と共に『曹操』に捕らわれ、処刑されそうになった時に助命を懇願したのが『関羽』だったのです。
『張遼』が「生きていれば、いつか劉備殿とも再会できよう」と心を尽くして説得すると、『関羽』は「劉皇叔の行方が分かり次第、自分はただちに辞去するであろう」と3つの条件を『曹操』につきつけ、降伏しました。
①自分は曹操に降伏するのではなく、漢の皇帝に降伏するのである
②劉備の夫人たちに十分な禄を出すこと
③劉備の居場所が分かり次第、自分は曹操のもとを去る
『曹操』は、この『関羽』の条件をすべて受け入れました。
三国史跡紹介・其之二十四~土山関帝廟(詳しくは2007年8月16日のブログを参照してね)
この『張遼』が『関羽』を説得した地に建つのが「土山関帝廟」です。
所在地は「江蘇省邳州市土山鎮」です。
「土山鎮」から「関帝廟」までの交通手段が無さそうだったので「タクシー」で行きました。
入場料は10元です。
到達難易度は「B」にしておきます。
「土山鎮」からそこそこ遠いし、タクシーをチャーターしていないと帰れないぞ~。
…以上
関羽雲長(生年不詳 - 219年)
『曹操』に降った『関羽』は『曹操』の推挙で「献帝」から“偏将軍”に任命されました。
『曹操』は3日に1度は宴会を催し、『関羽』の歓心を買おうとしますが『関羽』は少しもなびきません。
立派な屋敷も与えましたが『関羽』はそこに『劉備』の夫人たちを住まわせ、自分は外で警備にあたりました。
美しい綾絹や錦の布、金銀の器、10人の美女も『関羽』の気持ちを動かせません。
ある時、『曹操』は『関羽』の馬がひどく痩せているのに気付き、その訳を尋ねると、体が重いので馬が耐え切れず痩せてしまうとのこと。
『曹操』はすぐに部下に命じて「赤兎」を引かせて来ました。
顔をほころばせ礼を言う『関羽』に、『曹操』も「初めて貴公に喜んでもらえたな」と嬉しげに言うと、「千里を走るこの馬なら、兄上(劉備)のもとへもすぐにとんで行けましょう」と『関羽』が答えたので『曹操』は後悔しましたが、あとのまつりでした。
こうして「赤兎馬」は『董卓』→『呂布』→『曹操』→『関羽』へと渡っていったのです。
三国史跡紹介・其之二十五~春秋楼(詳しくは2008年2月1日のブログを参照してね)
『関羽』が「許」に移ってから住んでいた地には「春秋楼」が建っています。
内院に「甘・麋」両夫人を住まわせ、『関羽』は外院に住んでいたと言います。
所在地は「河南省許昌市魏都区文廟街」です。
入場料は25元で、到達難易度は「D」です。
許昌市内ですし、駅からも歩いて行けますよ。
…以上
袁紹本初(生年不詳 - 202年)
200年2月『袁紹』は「顔良」「淳于瓊」「郭図」らを「白馬」に派遣して「劉延(曹操の麾下)」攻撃にあたらせました。
『曹操』は「劉延」を救援しようと進軍し、4月に両軍は「白馬」で衝突しました。(白馬の戦い)
当初『袁紹』軍の「顔良」に手も足も出なかった『曹操』軍でしたが、『曹操』はついに『関羽』を投入します。
義理堅い『関羽』は『曹操』に恩を返し、『劉備』の消息が分かり次第去ってしまうと思った『曹操』は『関羽』に功を立てさせないように従軍させていなかったのです。
『曹操』は軍を西に向かわせると見せかける策を取ります。
『袁紹』は「白馬城」攻撃を「顔良」に任せ、自身は主力軍を率いて「延津」に向かいます。
『袁紹』は『曹操』の策にはまり、兵力を二分してしまったのです。
これを見た『曹操』はすかさず兵を率い、「白馬」へ急行します。
『関羽』は敵陣の中に「顔良」を見つけると、大軍の中に飛び込んで馬上から「顔良」を突き落とし、首をかき斬って悠然と引き返して来ました。
『曹操』はこれを喜び、『関羽』を“漢寿亭侯”に任じて恩賞を与えました。
劉備玄徳(161年 - 223年)
「顔良」を討ち取ったのは、『曹操』軍の『関羽』によるものだ…という目撃情報で『袁紹』軍に従軍していた『劉備』が尋問を受けます。
実は『劉備』は『曹操』と内通して、『関羽』に「顔良」を討たせたという疑いをかけたのです。
しかし『劉備』と『関羽』は“徐州”ではぐれて以来、お互いに消息を知りませんでした。
それが今『劉備』は『袁紹』軍、『関羽』は『曹操』軍として戦っていたのです。
『劉備』は『袁紹』に、自分は『曹操』に攻撃され『袁紹』を頼っていること、『関羽』が『曹操』に付いているなど知る由もないことを説きます。
そして“三国演義”では、「顔良」の仇を討ちたいと志願してきた「文醜」も『関羽』に討たれたことになっています。
『曹操』軍にいたのは、まぎれもなく『関羽』だと確信した『劉備』は、『関羽』宛に手紙を託します。
『劉備』からの手紙を受け取った『関羽』は、ようやく『劉備』の消息を知ることが出来たのです。
「顔良」「文醜」を討ち取り、『曹操』への恩義を果たせたと考えた『関羽』は『曹操』からの贈り物には手もつけずに封印します。
そして『曹操』に別れを告げてから『劉備』のもとへ向かおうとした『関羽』でしたが、『曹操』の屋敷には連日「避客牌」が掛けられ、面会することが出来ません。
『曹操』はわざと『関羽』に会わないようにしていたのです。
『関羽』は業を煮やし、『曹操』に手紙を残して、『劉備』の妻「甘夫人」「麋夫人」を連れ、『劉備』がいる“冀州”へと向かったのです。
『曹操』の部下たちは『関羽』を追跡しようとしますが、『曹操』は「関羽は義を貫いたのだ」と説き伏せます。
それに、これは『曹操』自身が呑んだ条件でもあるのです。
しかし“三国演義”では『曹操』は何度も屋敷に足を運んでくれた『関羽』を返してしまった自分を大人気なかったと悔やみ、『関羽』と別れをするために追いかけます。
そして“灞陵橋”で『関羽』一行に追い着きました。
『関羽』は「甘・麋」両夫人らに橋を渡らせ、1人『曹操』らを待ち受けます。
『曹操』は『関羽』に別れを言い、路銀を渡しますが『関羽』は受け取りません。
せめてと差し出された衣服を『関羽』は「青龍偃月刀」で受け取り、礼を述べ去って行ったのです。
馬から下りずに、贈り物を刀で受け取るとは…と『曹操』配下の武将は『関羽』の無礼さに怒りを露にしますが、『曹操』は「我々を警戒してのことだ」となおも『関羽』を追い掛けようとする配下を止めます。
三国史跡紹介・其之二十六~灞陵橋公園(詳しくは2008年2月1日&4月30日のブログを参照してね)
『劉備』のもとへ向かう『関羽』と、『曹操』が別れた“灞陵橋”があるのは「河南省許昌市魏都区許継大道」の「灞陵橋公園」内です。
市内の5路バスで「灞陵橋公園」で下車します。
入場料30元(関帝廟込み)です。
この「関帝廟」内には“灞陵橋原貌”が残っているので、必見です。
「灞陵橋公園」の到達難易度は「D」ですね。
市内にあって、路バスで行ける史跡は本当に「ありがたい」です。
…以上
そして『関羽』ら一行は『劉備』のいる“冀州”を目指しました。
三国史跡紹介・其之二十七~歇馬殿(詳しくは2008年4月29日のブログを参照してね)
『関羽』一行が「許昌」を出て、最初に宿をとった場所にあるのが、この「歇馬殿」です。
場所は「許昌県蒋李集鎮劉庄村」です。
許昌汽車南站から「301路バス」の「繁城」行きに乗り「劉庄」の入口で下車します。
でも俺は道路工事で「301路バス」が運行してなかったため、「3路バス」で「蒋李集鎮」で降り、「輪タク」を拾い「歇馬殿」に行きました。
入場は無料でした。
到達難易度は「C」かな…一応「輪タク」とかも拾えるし、「301路バス」があればもっと楽に行けただろうし。
…以上
張飛益徳(165年 - 221年)
『関羽』一行が“冀州”に辿り着くまでには五つの関所があります。
しかし関所を通るには『曹操』が書いた告文が無ければ通れません。
「東嶺関」「洛陽関」「沂水関」…といった関所を突破した『関羽』は途中で山賊のリーダーであった「周倉」を配下に入れました。
この「周倉」は“三国演義”にしか登場しない(つまり正史には登場しない)架空の人物です。
そして“冀州”に差し掛かった古城で『張飛』にも再会しました。
『張飛』は『関羽』が「許昌」で『曹操』に仕えていた事を知っており、『劉備』を裏切ったと勘違いし、『関羽』を襲います。
必死に誤解を解こうとする『関羽』。
そこに『曹操』配下の追っ手が来ましたが、『関羽』はそれを討つことで『張飛』の誤解を解きました。
趙雲子龍(生年不詳 - 229年)
『関羽』『張飛』が“冀州”国境まで来ていることを知った『劉備』は『袁紹』に提案をします。
『袁紹』は今『曹操』と戦闘中ですが、『劉備』は“荊州”の「劉表」を味方につける交渉役を『袁紹』に願い出たのです。
承諾した『袁紹』は“荊州”に『劉備』を派遣しましたが、これは“冀州”を出るための『劉備』の作戦でした。
そして『劉備』は『関羽』『張飛』と再会し、“荊州”の「劉表」のもとに身を寄せることにしたのでした。
その道中で『関羽』は「関平」を養子にし、『劉備』は「公孫瓚」の死によってその下を去った『趙雲』を配下に加えています。
孫策伯符(175年 - 200年)
さて200年4月「白馬の戦い」に勝利した『曹操』は、『袁紹』軍の「許攸」「張郃」などの寝返りにより、圧倒的な兵力差がありながら『官渡の戦い』に勝利しました。
『袁紹』は「江東」の『孫策』と同盟し、『曹操』の背後を襲わせようとしましたが、『孫策』はかつて滅ぼした「許貢」の食客に襲われます。
『孫策』は「華佗」の治療により回復に向かっていたものの、「于吉」という仙人を殺したことにより、呪い殺されたとされています。
逆に『曹操』は『孫策』の後を継いだ弟の『孫権』と同盟し、背後を固めたのでした。
『孫権』はこの時まだ19歳でした。
『官渡の戦い』に敗北した『袁紹』は「鄴」に逃走しましたが、202年に病死しました。
『曹操』は家督争いで分裂する『袁紹』の息子「袁譚」「袁尚」らを討ち、「袁」氏を滅ぼして「河北」を平定したのでした。
三国史跡紹介・其之二十八~官渡古戦場(詳しくは2007年12月2日のブログを参照してね)
「官渡古戦場」址は「河南省鄭州市中牟県官渡鎮官渡橋村」にあります。
俺は「鄭州」から「中牟県」に行くバスが無くて、タクシーで行ってしまいました。
有料施設であった「古戦場芸術宮」が閉館してしまい、特に見所はありません。
ここら一帯で『官渡の戦い』があったんだ…と偲ぶくらいですね。
到達難易度は「C」かな。
帰りは「路バス」で「開封」まで出られました。
三国史跡紹介・其之二十九~碣石山(詳しくは2008年6月7日のブログを参照してね)
206年『曹操』は“青州”の海賊「管承」を討伐した際、この「碣石山」に登り“観滄海”の詩を賦したとされています。
所在地は「山東省濱州市無棣県大山鎮」です。
「無棣」から「大山鎮」行きのバスに乗ります。
「大山鎮」に入ると車窓からも左手に「碣石山」が見えてきます。
入場料は10元です。到達難易度は「C」かな。
…以上
「劉表」が統治している“荊州”は『孫策』『孫権』の父『孫堅』の死をめぐり確執があり、『曹操』の脅威に晒されているとはいえ、いまだ戦乱には巻き込まれず人々は平和に暮らしていました。
「劉表」は同姓のよしみもあって『劉備』を歓迎し、「新野」の城を与えました。
『曹操』が河北を平定している間、『劉備』は平穏な日々を過ごしていました。
次回「第八巻」では、平穏な“荊州”にも『曹操』の脅威が迫ります
この巻の主な出来事です。
200年(建安5年) 『曹操』、『劉備』を攻撃。
『劉備』、“冀州”の『袁紹』のもとに身を寄せる。
『官渡の戦い』で『曹操』が『袁紹』を破る。
201年(建安6年) 『劉備』、“荊州”の「劉表」のもとに身を寄せる。
202年(建安7年) 『袁紹』病死。
207年(建安12年) 『曹操』河北を平定する。
曹操孟徳(155年 - 220年)
200年、ついに『曹操』みずから『劉備』討伐に出陣して来ました。
「小沛」にいた『劉備』と『張飛』らは敗走し、『劉備』は“冀州”の『袁紹』の下に逃れ、『張飛』は行方不明になりました。
一方「下邳」の城を任されていた『関羽』も城外の山に追い詰められます。
かねてより『関羽』の人柄と武勇に惹かれていた『曹操』は、何としても『関羽』を配下に加えたいと考えていました。
“三国演義”では、かつて『呂布』の部下であった『張遼』が、『曹操』に『関羽』説得を願い出ます。
『張遼』は『呂布』と共に『曹操』に捕らわれ、処刑されそうになった時に助命を懇願したのが『関羽』だったのです。
『張遼』が「生きていれば、いつか劉備殿とも再会できよう」と心を尽くして説得すると、『関羽』は「劉皇叔の行方が分かり次第、自分はただちに辞去するであろう」と3つの条件を『曹操』につきつけ、降伏しました。
①自分は曹操に降伏するのではなく、漢の皇帝に降伏するのである
②劉備の夫人たちに十分な禄を出すこと
③劉備の居場所が分かり次第、自分は曹操のもとを去る
『曹操』は、この『関羽』の条件をすべて受け入れました。
三国史跡紹介・其之二十四~土山関帝廟(詳しくは2007年8月16日のブログを参照してね)
この『張遼』が『関羽』を説得した地に建つのが「土山関帝廟」です。
所在地は「江蘇省邳州市土山鎮」です。
「土山鎮」から「関帝廟」までの交通手段が無さそうだったので「タクシー」で行きました。
入場料は10元です。
到達難易度は「B」にしておきます。
「土山鎮」からそこそこ遠いし、タクシーをチャーターしていないと帰れないぞ~。
…以上
関羽雲長(生年不詳 - 219年)
『曹操』に降った『関羽』は『曹操』の推挙で「献帝」から“偏将軍”に任命されました。
『曹操』は3日に1度は宴会を催し、『関羽』の歓心を買おうとしますが『関羽』は少しもなびきません。
立派な屋敷も与えましたが『関羽』はそこに『劉備』の夫人たちを住まわせ、自分は外で警備にあたりました。
美しい綾絹や錦の布、金銀の器、10人の美女も『関羽』の気持ちを動かせません。
ある時、『曹操』は『関羽』の馬がひどく痩せているのに気付き、その訳を尋ねると、体が重いので馬が耐え切れず痩せてしまうとのこと。
『曹操』はすぐに部下に命じて「赤兎」を引かせて来ました。
顔をほころばせ礼を言う『関羽』に、『曹操』も「初めて貴公に喜んでもらえたな」と嬉しげに言うと、「千里を走るこの馬なら、兄上(劉備)のもとへもすぐにとんで行けましょう」と『関羽』が答えたので『曹操』は後悔しましたが、あとのまつりでした。
こうして「赤兎馬」は『董卓』→『呂布』→『曹操』→『関羽』へと渡っていったのです。
三国史跡紹介・其之二十五~春秋楼(詳しくは2008年2月1日のブログを参照してね)
『関羽』が「許」に移ってから住んでいた地には「春秋楼」が建っています。
内院に「甘・麋」両夫人を住まわせ、『関羽』は外院に住んでいたと言います。
所在地は「河南省許昌市魏都区文廟街」です。
入場料は25元で、到達難易度は「D」です。
許昌市内ですし、駅からも歩いて行けますよ。
…以上
袁紹本初(生年不詳 - 202年)
200年2月『袁紹』は「顔良」「淳于瓊」「郭図」らを「白馬」に派遣して「劉延(曹操の麾下)」攻撃にあたらせました。
『曹操』は「劉延」を救援しようと進軍し、4月に両軍は「白馬」で衝突しました。(白馬の戦い)
当初『袁紹』軍の「顔良」に手も足も出なかった『曹操』軍でしたが、『曹操』はついに『関羽』を投入します。
義理堅い『関羽』は『曹操』に恩を返し、『劉備』の消息が分かり次第去ってしまうと思った『曹操』は『関羽』に功を立てさせないように従軍させていなかったのです。
『曹操』は軍を西に向かわせると見せかける策を取ります。
『袁紹』は「白馬城」攻撃を「顔良」に任せ、自身は主力軍を率いて「延津」に向かいます。
『袁紹』は『曹操』の策にはまり、兵力を二分してしまったのです。
これを見た『曹操』はすかさず兵を率い、「白馬」へ急行します。
『関羽』は敵陣の中に「顔良」を見つけると、大軍の中に飛び込んで馬上から「顔良」を突き落とし、首をかき斬って悠然と引き返して来ました。
『曹操』はこれを喜び、『関羽』を“漢寿亭侯”に任じて恩賞を与えました。
劉備玄徳(161年 - 223年)
「顔良」を討ち取ったのは、『曹操』軍の『関羽』によるものだ…という目撃情報で『袁紹』軍に従軍していた『劉備』が尋問を受けます。
実は『劉備』は『曹操』と内通して、『関羽』に「顔良」を討たせたという疑いをかけたのです。
しかし『劉備』と『関羽』は“徐州”ではぐれて以来、お互いに消息を知りませんでした。
それが今『劉備』は『袁紹』軍、『関羽』は『曹操』軍として戦っていたのです。
『劉備』は『袁紹』に、自分は『曹操』に攻撃され『袁紹』を頼っていること、『関羽』が『曹操』に付いているなど知る由もないことを説きます。
そして“三国演義”では、「顔良」の仇を討ちたいと志願してきた「文醜」も『関羽』に討たれたことになっています。
『曹操』軍にいたのは、まぎれもなく『関羽』だと確信した『劉備』は、『関羽』宛に手紙を託します。
『劉備』からの手紙を受け取った『関羽』は、ようやく『劉備』の消息を知ることが出来たのです。
「顔良」「文醜」を討ち取り、『曹操』への恩義を果たせたと考えた『関羽』は『曹操』からの贈り物には手もつけずに封印します。
そして『曹操』に別れを告げてから『劉備』のもとへ向かおうとした『関羽』でしたが、『曹操』の屋敷には連日「避客牌」が掛けられ、面会することが出来ません。
『曹操』はわざと『関羽』に会わないようにしていたのです。
『関羽』は業を煮やし、『曹操』に手紙を残して、『劉備』の妻「甘夫人」「麋夫人」を連れ、『劉備』がいる“冀州”へと向かったのです。
『曹操』の部下たちは『関羽』を追跡しようとしますが、『曹操』は「関羽は義を貫いたのだ」と説き伏せます。
それに、これは『曹操』自身が呑んだ条件でもあるのです。
しかし“三国演義”では『曹操』は何度も屋敷に足を運んでくれた『関羽』を返してしまった自分を大人気なかったと悔やみ、『関羽』と別れをするために追いかけます。
そして“灞陵橋”で『関羽』一行に追い着きました。
『関羽』は「甘・麋」両夫人らに橋を渡らせ、1人『曹操』らを待ち受けます。
『曹操』は『関羽』に別れを言い、路銀を渡しますが『関羽』は受け取りません。
せめてと差し出された衣服を『関羽』は「青龍偃月刀」で受け取り、礼を述べ去って行ったのです。
馬から下りずに、贈り物を刀で受け取るとは…と『曹操』配下の武将は『関羽』の無礼さに怒りを露にしますが、『曹操』は「我々を警戒してのことだ」となおも『関羽』を追い掛けようとする配下を止めます。
三国史跡紹介・其之二十六~灞陵橋公園(詳しくは2008年2月1日&4月30日のブログを参照してね)
『劉備』のもとへ向かう『関羽』と、『曹操』が別れた“灞陵橋”があるのは「河南省許昌市魏都区許継大道」の「灞陵橋公園」内です。
市内の5路バスで「灞陵橋公園」で下車します。
入場料30元(関帝廟込み)です。
この「関帝廟」内には“灞陵橋原貌”が残っているので、必見です。
「灞陵橋公園」の到達難易度は「D」ですね。
市内にあって、路バスで行ける史跡は本当に「ありがたい」です。
…以上
そして『関羽』ら一行は『劉備』のいる“冀州”を目指しました。
三国史跡紹介・其之二十七~歇馬殿(詳しくは2008年4月29日のブログを参照してね)
『関羽』一行が「許昌」を出て、最初に宿をとった場所にあるのが、この「歇馬殿」です。
場所は「許昌県蒋李集鎮劉庄村」です。
許昌汽車南站から「301路バス」の「繁城」行きに乗り「劉庄」の入口で下車します。
でも俺は道路工事で「301路バス」が運行してなかったため、「3路バス」で「蒋李集鎮」で降り、「輪タク」を拾い「歇馬殿」に行きました。
入場は無料でした。
到達難易度は「C」かな…一応「輪タク」とかも拾えるし、「301路バス」があればもっと楽に行けただろうし。
…以上
張飛益徳(165年 - 221年)
『関羽』一行が“冀州”に辿り着くまでには五つの関所があります。
しかし関所を通るには『曹操』が書いた告文が無ければ通れません。
「東嶺関」「洛陽関」「沂水関」…といった関所を突破した『関羽』は途中で山賊のリーダーであった「周倉」を配下に入れました。
この「周倉」は“三国演義”にしか登場しない(つまり正史には登場しない)架空の人物です。
そして“冀州”に差し掛かった古城で『張飛』にも再会しました。
『張飛』は『関羽』が「許昌」で『曹操』に仕えていた事を知っており、『劉備』を裏切ったと勘違いし、『関羽』を襲います。
必死に誤解を解こうとする『関羽』。
そこに『曹操』配下の追っ手が来ましたが、『関羽』はそれを討つことで『張飛』の誤解を解きました。
趙雲子龍(生年不詳 - 229年)
『関羽』『張飛』が“冀州”国境まで来ていることを知った『劉備』は『袁紹』に提案をします。
『袁紹』は今『曹操』と戦闘中ですが、『劉備』は“荊州”の「劉表」を味方につける交渉役を『袁紹』に願い出たのです。
承諾した『袁紹』は“荊州”に『劉備』を派遣しましたが、これは“冀州”を出るための『劉備』の作戦でした。
そして『劉備』は『関羽』『張飛』と再会し、“荊州”の「劉表」のもとに身を寄せることにしたのでした。
その道中で『関羽』は「関平」を養子にし、『劉備』は「公孫瓚」の死によってその下を去った『趙雲』を配下に加えています。
孫策伯符(175年 - 200年)
さて200年4月「白馬の戦い」に勝利した『曹操』は、『袁紹』軍の「許攸」「張郃」などの寝返りにより、圧倒的な兵力差がありながら『官渡の戦い』に勝利しました。
『袁紹』は「江東」の『孫策』と同盟し、『曹操』の背後を襲わせようとしましたが、『孫策』はかつて滅ぼした「許貢」の食客に襲われます。
『孫策』は「華佗」の治療により回復に向かっていたものの、「于吉」という仙人を殺したことにより、呪い殺されたとされています。
逆に『曹操』は『孫策』の後を継いだ弟の『孫権』と同盟し、背後を固めたのでした。
『孫権』はこの時まだ19歳でした。
『官渡の戦い』に敗北した『袁紹』は「鄴」に逃走しましたが、202年に病死しました。
『曹操』は家督争いで分裂する『袁紹』の息子「袁譚」「袁尚」らを討ち、「袁」氏を滅ぼして「河北」を平定したのでした。
三国史跡紹介・其之二十八~官渡古戦場(詳しくは2007年12月2日のブログを参照してね)
「官渡古戦場」址は「河南省鄭州市中牟県官渡鎮官渡橋村」にあります。
俺は「鄭州」から「中牟県」に行くバスが無くて、タクシーで行ってしまいました。
有料施設であった「古戦場芸術宮」が閉館してしまい、特に見所はありません。
ここら一帯で『官渡の戦い』があったんだ…と偲ぶくらいですね。
到達難易度は「C」かな。
帰りは「路バス」で「開封」まで出られました。
三国史跡紹介・其之二十九~碣石山(詳しくは2008年6月7日のブログを参照してね)
206年『曹操』は“青州”の海賊「管承」を討伐した際、この「碣石山」に登り“観滄海”の詩を賦したとされています。
所在地は「山東省濱州市無棣県大山鎮」です。
「無棣」から「大山鎮」行きのバスに乗ります。
「大山鎮」に入ると車窓からも左手に「碣石山」が見えてきます。
入場料は10元です。到達難易度は「C」かな。
…以上
「劉表」が統治している“荊州”は『孫策』『孫権』の父『孫堅』の死をめぐり確執があり、『曹操』の脅威に晒されているとはいえ、いまだ戦乱には巻き込まれず人々は平和に暮らしていました。
「劉表」は同姓のよしみもあって『劉備』を歓迎し、「新野」の城を与えました。
『曹操』が河北を平定している間、『劉備』は平穏な日々を過ごしていました。
次回「第八巻」では、平穏な“荊州”にも『曹操』の脅威が迫ります
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