我的三国演義~第三巻『美女連環の計』
この巻の主な出来事です。
190年(初平元年) 『董卓」、「献帝」を擁立し、「少帝」を殺害する。
「献帝」を「洛陽」から「長安」へ移す。(遷都)
191年(初平2年) 『袁紹』、「公孫瓉」を破り“冀州”を取る。
192年(初平3年) 『呂布』「王允」、『董卓』を暗殺する。
「王允」、「李カク」「郭」に殺害される。
190年(初平元年)『袁紹』を盟主として“反董卓連合軍”が成立すると、『曹操』もまた父「曹嵩」の援助を受け、駆けつけました。(“三国演義”では曹操が首謀者ですが)
しかし、『董卓』打倒を目指して集結したはずの“連合軍”は、『董卓』の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、誰も積極的に攻めようとはしませんでした。
やがて諸侯はお互いを牽制し始めます。
「水関」は「洛陽」と「官渡」の中間くらいです。
孫堅文台(156年 - 192年)
その中で先陣を切ったのが「長沙」の“太守”『孫堅』でした。
『孫堅文台』は“孫子”の兵法で知られる「孫武」の末孫といわれています。
『孫策』『孫権』の父で、「呉」建国ののち「武烈皇帝」と諡されました。
「水関」で『孫堅』軍と、『董卓』軍の「華雄」は激突します。
『孫堅』には「程普」「黄蓋」「韓当」「祖茂」の四武将がおり、「華雄」には「胡軫」「李粛」「趙岑」らがいました。
『孫堅』軍は緒戦で「華雄」軍の「胡軫」を討ち取るという大きな戦果をあげました。
『孫堅』は深追いをせず、全軍を休息させることにしましたが、兵糧が到着しません。
兵糧の補給を任されていた『袁術』が、『孫堅』を後々油断ならない人物になると見て、わざと補給をしなかったのです。
味方に兵糧攻めにあい、空腹で戦意が上がらない『孫堅』軍に「華雄」軍が襲い掛かり、『孫堅』自身もあわやというとき、「祖茂」が『孫堅』の赤い頭巾を奪い取ると、敵を引き付けるために走り去りました。
この戦で『孫堅』は大切な将であった「祖茂」を失ったのです。
その後“連合軍”の陣に戻った『孫堅』は諸侯が集まっている席で『袁術』への怒りをぶつけると、『袁術』は部下の首を斬り、その者に責任をなすりつけたのです。
関羽雲長(162年? - 219年)
『孫堅』軍は撤退し、「華雄」軍は勢いづいて“連合軍”に襲い掛かります。
「華雄」に戦いを挑んだ武将も次々に討ち取られてしまいます。
ひるむ“連合軍”に、総大将の『袁紹』も「ここに、これだけの諸侯がいながら「華雄」を討つ大将も持っていないのか!」と言います。
その中で「私にやらせてください」と志願する者がいました。
『劉備』と共に足軽として「公孫瓉」軍に加わっていた『関羽』でした。
『関羽』はあっという間に「華雄」の首を下げて戻って来たため、その武勇は諸侯の間に知れ渡りました。
VS
『呂布』 『張飛』 『劉備』 『関羽』 の「三英戦呂布」
“三国演義”では、その後の「虎牢関の戦い」が記されています。
実は「水関」と「虎牢関」は同一の場所だという話ですが…。
「虎牢関」で『董卓』軍の先鋒を務めたのが『呂布』でした。
名馬「赤兎」に跨り、“連合軍”の諸侯をなぎ倒していきました。
「公孫瓉」も『呂布』に殺されかけたほどでした。
これを見て『張飛』が『呂布』に挑みました。
勝負は互角で、すかさず『劉備』と『関羽』が加勢しますが、それでも『呂布』は倒せませんでした。
しかし、さすがに疲れた『呂布』は「赤兎馬」を駆って退却していきました。
三国史跡紹介・其之七~虎牢関(詳しくは2007年12月2日のブログを参照してね)
場所は「滎陽市水鎮虎牢関村」です。
「河南省鄭州」の長途客運西站から「滎陽上街」行きのバスに乗ります。
そして「上街」から「水」行きのバスに乗って行くのですが、全然「水」行きのバスが来ないので、俺は「上街」からタクシーで行きました。(所要時間30~40分)
「虎牢関村」に着くと、この「虎牢関」の石碑と、奥に「三義廟」があります。
「三義廟」は見学無料ですが、この辺りに着くと、ガイドのジイちゃんがいます。
ガイド料30元ですが、「呂布城」やら「絆馬索」を案内してもらえます。
ちなみに俺はチャーターして来たタクシーに乗って移動しましたが、足が無いと歩いて遺跡を回ることになるので、全ての見学に数時間掛かることを覚悟してくださいね。
そして、そのジイちゃんがいないと、何が何の遺跡だかも分かりませんから、旅行者のみで散策するのは無理でしょう…。
到達難易度は「虎牢関村」までは「C」。
しかし「呂布城」などの遺跡を見る場合はガイドがいないと無理なので「A」かな。
…以上。
曹操孟徳(155年 - 220年)
激しい戦いの後、『董卓』は「長安」への遷都を決意します。
『董卓』は「洛陽」を焼き払い、数百万にのぼる住民を強制的に「長安」に遷都させました。
『曹操』は盟主の『袁紹』に好機だと迫りましたが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されませんでした。
業を煮やした『曹操』は単独で『董卓』を攻撃しました。
しかし『曹操』の軍は『董卓』配下の「徐栄」との交戦により壊滅的な打撃を受けました。
『曹操』は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めました。
“三国演義”では『董卓』が焦土作戦をとったため補給が困難になったこともあり、「長安」遷都後に“連合軍”は内部の不一致などもあって自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走りました。
そのころ、焼け落ちた都「洛陽」の消火活動や歴代皇帝の墓の清掃、修復にあたっていた『孫堅』は古井戸から小さな「玉璽」を見つけました。
この「玉璽」は「少帝」拉致の混乱で紛失したものでした。
「玉璽」とは「秦」より伝えられた皇帝のしるしです。
この「玉璽」を手にすると天下を取れるといわれていました。
しかし『袁紹』の耳に「玉璽」を手にしたことが漏れてしまい、『孫堅』は『袁紹』の追っ手を振り切って「長沙」へ帰還しました。
袁紹本初(生年不詳 - 202年)
“反董卓連合軍”が解散したのち、『袁紹』は華北への勢力拡張を始めました。
『袁紹』は「公孫瓚」には共に“冀州”を攻め、領土を分けようと持ちかけ、一方で“冀州”の“刺史”「韓馥」には、「公孫瓚」が“冀州”に攻めてくるので力になってやろう…と。
『袁紹』は、191年に「韓馥」より“冀州牧”の地位を譲り受けました。
「公孫瓚」は「韓馥」が『袁紹』に“冀州”を譲ったと知り驚きました。
“三国演義”では「公孫瓚」は従弟の「公孫越」を遣わし、『袁紹』に土地を分与するように申し入れます。
『袁紹』は「ならば公孫瓚自身が来られよ」と述べたので「公孫越」はその足で兄の下へ向かいました。
しかし「公孫越」は途中で無残にも『袁紹』の配下に殺されてしまいました。
「公孫瓚」は激怒し、大軍を率いて「磐河」まで兵を進めました。
そこで「公孫瓚」は『袁紹』軍の「文醜」に危うく殺されかけたところを『趙雲』に救われています。
それから『劉備』らも「公孫瓚」に加勢し、『趙雲』と出会っています。
そして、192年の「界橋の戦い」後、お互い消耗した『袁紹』と「公孫瓚」は『董卓』の仲裁によって和睦しました。
三国史跡紹介・其之八~平原(詳しくは2007年10月13日のブログを参照してね)
191年『劉備』は「平原」の“相”に任ぜられました。
ここは「山東省徳州市平原県」の「三国文化広場」です。
平原火車站からタクシーで10分くらいだったかな。
ただの公園なので入場料はありません。
一応『劉備』が「平原」にいたときの古事を描いた壁画が8枚あります。
到達難易度は「D」かな。
俺は市内地図を持ってなかったからタクシーで行ったんだけどね。 …以上。
董卓仲穎(生年不詳 - 192年)
『董卓』は遷都の際、「洛陽」の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れたといいます。
そして「長安」遷都後も暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、インフレを招きました。
「長安」近くの「郿」に難攻不落の城塞を築き、30年分の食糧を蓄えていたといいます。
『董卓』の暴虐ぶりは相変わらずで、『董卓』に逆らった捕虜が舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で殺害されました。
熱湯で苦しむ捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましました。
『董卓』はそれを見て笑い、平然と酒を飲んでいたといいます。
貂蝉(生没年不詳)
しかし、192年(初平3年4月)、『董卓』は“司徒”「王允」と『呂布』により暗殺されました。
親子の契りを結んだ『呂布』が『董卓』を殺害した原因について、“正史”では、小さな過失から『呂布』は『董卓』に殺されかけたことがあり、それ以来恨みを持つようになったため、あるいは『董卓』の侍女と密通したことの発覚を恐れたためなどの記事があります。
“三国演義”では、これを元に「王允」の養女「貂蝉」を、『呂布』と『董卓』が奪い合うよう「王允」が仕向けた「美女連環の計」が描かれています。
「王允」はまず『呂布』に「貂蝉」を謁見させ、その美貌に惚れさせます。
ですが、次に「王允」は『呂布』とは別に「貂蝉」を『董卓』にも謁見させ、『董卓』に「貂蝉」を渡してしまいます。
怒った『呂布』が「王允」に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めました。
その後、『呂布』と「貂蝉」が度々密会し、「貂蝉」が『呂布』の下に居たいという意思表示をします。
2人が密会していることに『董卓』はいったん怒りましたが、腹臣の「李儒」の進言により「貂蝉」を『呂布』の下に送るように言います。
ですが、一方で「貂蝉」は『董卓』にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、『董卓』の下を動こうとしません。
それに怒った『呂布』が「王允」と結託し、『董卓』を殺害しました。
「連環の計」の成立後、「貂蝉」は『呂布』と共に行動し、198年に『呂布』と共に『曹操』に捕らえられたとされます。
その後の展開としては、「貂蝉」を巡り『曹操』と『関羽』が争いますが、『曹操』が降りて『関羽』に譲る、または『関羽』が心の動揺を鎮めるため「貂蝉」を斬ってしまう、など話によって展開が異なっています。
ほか、「連環の計」遂行後に「貂蝉」が自害して果てるという展開も多くあります。(横山光輝“三国志”など)
ですが、中国においては「貂蝉」を架空の人物とする説と実在の人物とする説の両方が唱えられています。
「貂蝉」は、「楊貴妃」「西施」「王昭君」と並び、“古代中国四大美人”の一人に数えられていますがね。
三国史跡紹介・其之九~貂蝉墓(未到達)
「貂蝉墓」があるのは「貂蝉」の故郷とされている「山西省忻州市木芝村」です。
陵園内には「貂蝉墓」、「貂蝉像」の他に、「貂蝉」の一生を人形で紹介する「貂蝉彩塑館」があるらしいです。
でも、観光客もほとんどいないようで、園内は羊の住まいと化しているそうな…
…以上。
事件後「長安・郿」に居た「董旻」、「董璜」をはじめとする『董卓』の一族は、全員が『呂布』の部下や「袁」一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる『董卓』の母親も殺されました。
また、『董卓』によって殺された「袁」氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、「董」氏一族の遺体は集められて火をつけられました。
『董卓』は肥満してたっぷりと脂肪が付いていたらしく、夜営の兵が戯れにへそに挿した灯心が数日間は燃えていたと書かれています。
また、“御覧引董卓別伝”には 百姓(人民)は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の指輪・衣服などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため「長安」の酒と肉の値段は急騰した、とあります。
後になって、『董卓』の部下だった兵士が死体の灰をかき集めて郿城に葬っていますが、“三国演義”ではこの葬儀の場面を脚色しています。
・・・、「李カク」ら四将は、『董卓』の遺体を命令を出して探索させますが、ほんのわずかの骨や皮の切れ端しか見つけられなかったので、香木を彫って『董卓』の像を造り、遺体の代用としました。
郿宇城に持って行き、大々的に葬儀を行い王者の衣冠・棺を用いてこれを埋葬したところ、雷鳴がとどろき、豪雨によって平地は数尺の水におおわれ、落雷が『董卓』の遺体を粉々にしました。
「李カク」は三度、埋葬し直しましたが、その都度雷鳴はとどろき、雷によって『董卓』の遺体は、もはやこの地上には何も残りませんでした。
『董卓』に対する天の怒りの甚だしさといえよう…と、死後も『董卓』に鞭打っています。
192年(初平3年4月)、『董卓』が『呂布』「王允」等に暗殺されると、「王允」は「李カク」討伐の令を出しました。
『董卓』の軍事力の基礎であった「郭」「李カク」ら「涼州」の軍勢が復讐の名の下に首都「長安」に侵入します。
『呂布』はしばらく応戦するものの支えきれず、数百騎とともに武関から逃亡しました。
「李カク」の襲来を察知した「王允」は、『董卓』の旧将「胡軫」「徐栄」らに「李カク」を迎撃するよう命じます。
しかし、「徐栄」「胡軫」は惨敗、「徐栄」は「李カク」に討たれ、「胡軫」は「李カク」に寝返りました。
同5月、長安城は「李カク」に包囲されてから8日で陥落。
「李カク」は「王允」を八つ裂きにし、『呂布』一党を「長安」から叩き出します。
その後『董卓』の遺灰を集め、香木で『董卓』の像を作り葬儀を行いますが落雷が起こり断念しています。
三国史跡紹介・其之十~王允墓(衣冠塚は未到達)
「王允子師(137年 - 192年)」は「長安」にて『董卓』軍残党の「李カク」によって殺されてしまいました。
衣冠塚は「王允」の故郷である「山西省祁県西北修善村西」にあります。
「王允墓」は「河南省許昌市北郊外清異河西岸」にあります。
「王允」の死を悼んだ「献帝」の手によって「長安」から「許昌」に墓が移されたといいます。
2路バスで「北站」行きに乗り、「菅庄」で下車します。
川にかかる橋を渡り、川の西岸に沿って北上すると、10分ほどで着きます。
でも、このように道から外れています。
到達難易度は「C」かな。
…以上。
さて『董卓』亡き後、各地の群雄たちはどうしたんでしょうか?
それは「第四巻」にて
この巻の主な出来事です。
190年(初平元年) 『董卓」、「献帝」を擁立し、「少帝」を殺害する。
「献帝」を「洛陽」から「長安」へ移す。(遷都)
191年(初平2年) 『袁紹』、「公孫瓉」を破り“冀州”を取る。
192年(初平3年) 『呂布』「王允」、『董卓』を暗殺する。
「王允」、「李カク」「郭」に殺害される。
190年(初平元年)『袁紹』を盟主として“反董卓連合軍”が成立すると、『曹操』もまた父「曹嵩」の援助を受け、駆けつけました。(“三国演義”では曹操が首謀者ですが)
しかし、『董卓』打倒を目指して集結したはずの“連合軍”は、『董卓』の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、誰も積極的に攻めようとはしませんでした。
やがて諸侯はお互いを牽制し始めます。
「水関」は「洛陽」と「官渡」の中間くらいです。
孫堅文台(156年 - 192年)
その中で先陣を切ったのが「長沙」の“太守”『孫堅』でした。
『孫堅文台』は“孫子”の兵法で知られる「孫武」の末孫といわれています。
『孫策』『孫権』の父で、「呉」建国ののち「武烈皇帝」と諡されました。
「水関」で『孫堅』軍と、『董卓』軍の「華雄」は激突します。
『孫堅』には「程普」「黄蓋」「韓当」「祖茂」の四武将がおり、「華雄」には「胡軫」「李粛」「趙岑」らがいました。
『孫堅』軍は緒戦で「華雄」軍の「胡軫」を討ち取るという大きな戦果をあげました。
『孫堅』は深追いをせず、全軍を休息させることにしましたが、兵糧が到着しません。
兵糧の補給を任されていた『袁術』が、『孫堅』を後々油断ならない人物になると見て、わざと補給をしなかったのです。
味方に兵糧攻めにあい、空腹で戦意が上がらない『孫堅』軍に「華雄」軍が襲い掛かり、『孫堅』自身もあわやというとき、「祖茂」が『孫堅』の赤い頭巾を奪い取ると、敵を引き付けるために走り去りました。
この戦で『孫堅』は大切な将であった「祖茂」を失ったのです。
その後“連合軍”の陣に戻った『孫堅』は諸侯が集まっている席で『袁術』への怒りをぶつけると、『袁術』は部下の首を斬り、その者に責任をなすりつけたのです。
関羽雲長(162年? - 219年)
『孫堅』軍は撤退し、「華雄」軍は勢いづいて“連合軍”に襲い掛かります。
「華雄」に戦いを挑んだ武将も次々に討ち取られてしまいます。
ひるむ“連合軍”に、総大将の『袁紹』も「ここに、これだけの諸侯がいながら「華雄」を討つ大将も持っていないのか!」と言います。
その中で「私にやらせてください」と志願する者がいました。
『劉備』と共に足軽として「公孫瓉」軍に加わっていた『関羽』でした。
『関羽』はあっという間に「華雄」の首を下げて戻って来たため、その武勇は諸侯の間に知れ渡りました。
VS
『呂布』 『張飛』 『劉備』 『関羽』 の「三英戦呂布」
“三国演義”では、その後の「虎牢関の戦い」が記されています。
実は「水関」と「虎牢関」は同一の場所だという話ですが…。
「虎牢関」で『董卓』軍の先鋒を務めたのが『呂布』でした。
名馬「赤兎」に跨り、“連合軍”の諸侯をなぎ倒していきました。
「公孫瓉」も『呂布』に殺されかけたほどでした。
これを見て『張飛』が『呂布』に挑みました。
勝負は互角で、すかさず『劉備』と『関羽』が加勢しますが、それでも『呂布』は倒せませんでした。
しかし、さすがに疲れた『呂布』は「赤兎馬」を駆って退却していきました。
三国史跡紹介・其之七~虎牢関(詳しくは2007年12月2日のブログを参照してね)
場所は「滎陽市水鎮虎牢関村」です。
「河南省鄭州」の長途客運西站から「滎陽上街」行きのバスに乗ります。
そして「上街」から「水」行きのバスに乗って行くのですが、全然「水」行きのバスが来ないので、俺は「上街」からタクシーで行きました。(所要時間30~40分)
「虎牢関村」に着くと、この「虎牢関」の石碑と、奥に「三義廟」があります。
「三義廟」は見学無料ですが、この辺りに着くと、ガイドのジイちゃんがいます。
ガイド料30元ですが、「呂布城」やら「絆馬索」を案内してもらえます。
ちなみに俺はチャーターして来たタクシーに乗って移動しましたが、足が無いと歩いて遺跡を回ることになるので、全ての見学に数時間掛かることを覚悟してくださいね。
そして、そのジイちゃんがいないと、何が何の遺跡だかも分かりませんから、旅行者のみで散策するのは無理でしょう…。
到達難易度は「虎牢関村」までは「C」。
しかし「呂布城」などの遺跡を見る場合はガイドがいないと無理なので「A」かな。
…以上。
曹操孟徳(155年 - 220年)
激しい戦いの後、『董卓』は「長安」への遷都を決意します。
『董卓』は「洛陽」を焼き払い、数百万にのぼる住民を強制的に「長安」に遷都させました。
『曹操』は盟主の『袁紹』に好機だと迫りましたが、前述のような諸侯の打算により、攻撃命令は下されませんでした。
業を煮やした『曹操』は単独で『董卓』を攻撃しました。
しかし『曹操』の軍は『董卓』配下の「徐栄」との交戦により壊滅的な打撃を受けました。
『曹操』は連合に見切りを付け、故郷に戻って軍の再編を始めました。
“三国演義”では『董卓』が焦土作戦をとったため補給が困難になったこともあり、「長安」遷都後に“連合軍”は内部の不一致などもあって自然解散となり、有力者は各自の勢力拡大に走りました。
そのころ、焼け落ちた都「洛陽」の消火活動や歴代皇帝の墓の清掃、修復にあたっていた『孫堅』は古井戸から小さな「玉璽」を見つけました。
この「玉璽」は「少帝」拉致の混乱で紛失したものでした。
「玉璽」とは「秦」より伝えられた皇帝のしるしです。
この「玉璽」を手にすると天下を取れるといわれていました。
しかし『袁紹』の耳に「玉璽」を手にしたことが漏れてしまい、『孫堅』は『袁紹』の追っ手を振り切って「長沙」へ帰還しました。
袁紹本初(生年不詳 - 202年)
“反董卓連合軍”が解散したのち、『袁紹』は華北への勢力拡張を始めました。
『袁紹』は「公孫瓚」には共に“冀州”を攻め、領土を分けようと持ちかけ、一方で“冀州”の“刺史”「韓馥」には、「公孫瓚」が“冀州”に攻めてくるので力になってやろう…と。
『袁紹』は、191年に「韓馥」より“冀州牧”の地位を譲り受けました。
「公孫瓚」は「韓馥」が『袁紹』に“冀州”を譲ったと知り驚きました。
“三国演義”では「公孫瓚」は従弟の「公孫越」を遣わし、『袁紹』に土地を分与するように申し入れます。
『袁紹』は「ならば公孫瓚自身が来られよ」と述べたので「公孫越」はその足で兄の下へ向かいました。
しかし「公孫越」は途中で無残にも『袁紹』の配下に殺されてしまいました。
「公孫瓚」は激怒し、大軍を率いて「磐河」まで兵を進めました。
そこで「公孫瓚」は『袁紹』軍の「文醜」に危うく殺されかけたところを『趙雲』に救われています。
それから『劉備』らも「公孫瓚」に加勢し、『趙雲』と出会っています。
そして、192年の「界橋の戦い」後、お互い消耗した『袁紹』と「公孫瓚」は『董卓』の仲裁によって和睦しました。
三国史跡紹介・其之八~平原(詳しくは2007年10月13日のブログを参照してね)
191年『劉備』は「平原」の“相”に任ぜられました。
ここは「山東省徳州市平原県」の「三国文化広場」です。
平原火車站からタクシーで10分くらいだったかな。
ただの公園なので入場料はありません。
一応『劉備』が「平原」にいたときの古事を描いた壁画が8枚あります。
到達難易度は「D」かな。
俺は市内地図を持ってなかったからタクシーで行ったんだけどね。 …以上。
董卓仲穎(生年不詳 - 192年)
『董卓』は遷都の際、「洛陽」の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を手に入れたといいます。
そして「長安」遷都後も暴政を布き、銅貨の五銖銭を改鋳して貨幣価値を落としたため、インフレを招きました。
「長安」近くの「郿」に難攻不落の城塞を築き、30年分の食糧を蓄えていたといいます。
『董卓』の暴虐ぶりは相変わらずで、『董卓』に逆らった捕虜が舌を抜かれ、目をえぐられ、熱湯の煮えた大鍋で殺害されました。
熱湯で苦しむ捕虜の泣き叫ぶ声は天にこだましました。
『董卓』はそれを見て笑い、平然と酒を飲んでいたといいます。
貂蝉(生没年不詳)
しかし、192年(初平3年4月)、『董卓』は“司徒”「王允」と『呂布』により暗殺されました。
親子の契りを結んだ『呂布』が『董卓』を殺害した原因について、“正史”では、小さな過失から『呂布』は『董卓』に殺されかけたことがあり、それ以来恨みを持つようになったため、あるいは『董卓』の侍女と密通したことの発覚を恐れたためなどの記事があります。
“三国演義”では、これを元に「王允」の養女「貂蝉」を、『呂布』と『董卓』が奪い合うよう「王允」が仕向けた「美女連環の計」が描かれています。
「王允」はまず『呂布』に「貂蝉」を謁見させ、その美貌に惚れさせます。
ですが、次に「王允」は『呂布』とは別に「貂蝉」を『董卓』にも謁見させ、『董卓』に「貂蝉」を渡してしまいます。
怒った『呂布』が「王允」に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めました。
その後、『呂布』と「貂蝉」が度々密会し、「貂蝉」が『呂布』の下に居たいという意思表示をします。
2人が密会していることに『董卓』はいったん怒りましたが、腹臣の「李儒」の進言により「貂蝉」を『呂布』の下に送るように言います。
ですが、一方で「貂蝉」は『董卓』にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、『董卓』の下を動こうとしません。
それに怒った『呂布』が「王允」と結託し、『董卓』を殺害しました。
「連環の計」の成立後、「貂蝉」は『呂布』と共に行動し、198年に『呂布』と共に『曹操』に捕らえられたとされます。
その後の展開としては、「貂蝉」を巡り『曹操』と『関羽』が争いますが、『曹操』が降りて『関羽』に譲る、または『関羽』が心の動揺を鎮めるため「貂蝉」を斬ってしまう、など話によって展開が異なっています。
ほか、「連環の計」遂行後に「貂蝉」が自害して果てるという展開も多くあります。(横山光輝“三国志”など)
ですが、中国においては「貂蝉」を架空の人物とする説と実在の人物とする説の両方が唱えられています。
「貂蝉」は、「楊貴妃」「西施」「王昭君」と並び、“古代中国四大美人”の一人に数えられていますがね。
三国史跡紹介・其之九~貂蝉墓(未到達)
「貂蝉墓」があるのは「貂蝉」の故郷とされている「山西省忻州市木芝村」です。
陵園内には「貂蝉墓」、「貂蝉像」の他に、「貂蝉」の一生を人形で紹介する「貂蝉彩塑館」があるらしいです。
でも、観光客もほとんどいないようで、園内は羊の住まいと化しているそうな…
…以上。
事件後「長安・郿」に居た「董旻」、「董璜」をはじめとする『董卓』の一族は、全員が『呂布』の部下や「袁」一族の縁者らの手によって殺害され、90歳になる『董卓』の母親も殺されました。
また、『董卓』によって殺された「袁」氏一族に対しては盛大な葬儀が行われる一方、「董」氏一族の遺体は集められて火をつけられました。
『董卓』は肥満してたっぷりと脂肪が付いていたらしく、夜営の兵が戯れにへそに挿した灯心が数日間は燃えていたと書かれています。
また、“御覧引董卓別伝”には 百姓(人民)は向かい合って喜び、舞い踊り、家中の指輪・衣服などを売ってお酒とごちそうを買い、お互いに祝い合い、そのため「長安」の酒と肉の値段は急騰した、とあります。
後になって、『董卓』の部下だった兵士が死体の灰をかき集めて郿城に葬っていますが、“三国演義”ではこの葬儀の場面を脚色しています。
・・・、「李カク」ら四将は、『董卓』の遺体を命令を出して探索させますが、ほんのわずかの骨や皮の切れ端しか見つけられなかったので、香木を彫って『董卓』の像を造り、遺体の代用としました。
郿宇城に持って行き、大々的に葬儀を行い王者の衣冠・棺を用いてこれを埋葬したところ、雷鳴がとどろき、豪雨によって平地は数尺の水におおわれ、落雷が『董卓』の遺体を粉々にしました。
「李カク」は三度、埋葬し直しましたが、その都度雷鳴はとどろき、雷によって『董卓』の遺体は、もはやこの地上には何も残りませんでした。
『董卓』に対する天の怒りの甚だしさといえよう…と、死後も『董卓』に鞭打っています。
192年(初平3年4月)、『董卓』が『呂布』「王允」等に暗殺されると、「王允」は「李カク」討伐の令を出しました。
『董卓』の軍事力の基礎であった「郭」「李カク」ら「涼州」の軍勢が復讐の名の下に首都「長安」に侵入します。
『呂布』はしばらく応戦するものの支えきれず、数百騎とともに武関から逃亡しました。
「李カク」の襲来を察知した「王允」は、『董卓』の旧将「胡軫」「徐栄」らに「李カク」を迎撃するよう命じます。
しかし、「徐栄」「胡軫」は惨敗、「徐栄」は「李カク」に討たれ、「胡軫」は「李カク」に寝返りました。
同5月、長安城は「李カク」に包囲されてから8日で陥落。
「李カク」は「王允」を八つ裂きにし、『呂布』一党を「長安」から叩き出します。
その後『董卓』の遺灰を集め、香木で『董卓』の像を作り葬儀を行いますが落雷が起こり断念しています。
三国史跡紹介・其之十~王允墓(衣冠塚は未到達)
「王允子師(137年 - 192年)」は「長安」にて『董卓』軍残党の「李カク」によって殺されてしまいました。
衣冠塚は「王允」の故郷である「山西省祁県西北修善村西」にあります。
「王允墓」は「河南省許昌市北郊外清異河西岸」にあります。
「王允」の死を悼んだ「献帝」の手によって「長安」から「許昌」に墓が移されたといいます。
2路バスで「北站」行きに乗り、「菅庄」で下車します。
川にかかる橋を渡り、川の西岸に沿って北上すると、10分ほどで着きます。
でも、このように道から外れています。
到達難易度は「C」かな。
…以上。
さて『董卓』亡き後、各地の群雄たちはどうしたんでしょうか?
それは「第四巻」にて
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