先日、北畠親房と顕家・顕信の父子らを祀る霊山神社に参拝。前日の雪で急斜面の山道が凍結しているため、途中から徒歩で向かいました、
陸奥が結集し唯一中央に一矢を報いた歴史を噛み締めながら。文武に長け16歳で陸奥守に任じられ21歳まで統率した天才顕家、身近に喩えれば、大谷翔平+藤井聡太+片岡千之助・・・統率力・文才に欠けますね。
秀吉の中国大返しをはるかに上回る2度の西上、元祖風林火山の旗印、ミニ幕府組織体制、後醍醐天皇への諫奏文の上奏などなど計り知れない偉業を成し遂げました。顕家の死後、驚異の粘りで転戦した顕信もしかりです。
気持ちはすっかり顕家卿だが、ガクガク、ブルブル〜
陸奥国府の霊山城はさらに高地なのですぞ。
神門の奥の拝殿でご祈祷を授かる。霊山神社の楓は京都の嵐山から移植されたらしい。京都の鞍馬山に似た風情とも言われる。
会津藩家老だった西郷頼母が戊辰戦争後宮司を務め、姿三四郎のモデル西郷四郎を鍛えたところでもあります。今年は、戊辰戦争150年で何かと喧しくありますが、忠臣結城宗広、伊達行朝、南部師直らとともに、幼い皇子・義良親王(のちの後村上天皇)を支えた陸奥の歴史「もう一つの幕末」にも光を当ててほしいところです。
宮司さんにお伺いしたところ神社では特段の催しはないが、伊達市で何がしかの記念行事を行うらしいとか。賀詞交換会で市長さんが少し言及されていましたが、単独でなくゆかりの自治体(多賀城市、白河市、須賀川市、青森市、八戸市、大阪市、吉野町、伊勢市、筑西市・・)を交えていただきたいものです。
結城宗広父子を讃えて刻んだ磨崖碑(感忠銘)や霊山神社の始まりとなった霊山碑(「顕家生ては、奥羽を以て根拠と為し、身は泉州に死す といえども、魂魄反(帰)りて常に此の山に在るが如し」)を立てて顕彰した松平定信のように・・。
松口月城の漢詩碑
この機に新井白石が霊山を訪れて詠んだ漢詩も建立してほしいです。
「霊山鎮」
霊山開巨鎮 郷月照雄藩
鐘鼓千峯動 貔貅萬竈屯
出師資上洛 刻日復中原
一夕長星堕 年年哭嶺猿
(霊山に聳える巨大な山城、霊山鎮。月が南朝方の伊達郡の地を照らしている。鐘や鼓の音が千の嶺々に響き、屈強な兵たちが万の家々に屯している。奥羽の大軍勢を率いて上洛した北畠顕家公は一旦京都を平定した。しかし、ある日の夕方、阿倍野の戦いで敗死した。それを悲しんで 霊山の嶺々の猿が今でも毎年泣いている。)
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