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白河の陣2015-1 境の明神は連星イスカンダル~ガミラスだった。

2015年09月25日 | 歴史

◆旧奥州街道(国道294号線)白坂峠にある境の明神。

 まさに陸奥と下野の分岐点・・ですが辺りは木々も少なく見晴らしも良くこじんまりした社で、やや拍子抜けしていると、ガイドさんから「福島県にもあるんです。厳かですよ」と言われ進むと、何と県境を挟んで社がありました。うっそうとした古木に包まれた社は、幽玄な雰囲気を醸し出していた。

*国境の神には、玉津島明神(女神、衣通姫:そとおりひめ)と住吉明神(男神、中筒男命:なかつつおのみこと)あり、女神は内(国)を守り、男神は外敵を防ぐとされることから、陸奥・下野双方で自らの側を玉津島、反対側を住吉明神としている。2社が併存するのは極めて希とのことです。

◆陸奥側境の明神



 文禄4年(1595年)に白河を支配していた会津藩主蒲生氏郷が社殿を造営(現存するのは小祠)し、奥州・越後の諸大名や多くの商人、旅人の往来が盛んで、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり、灯籠や碑の寄進が盛んに行われていた。新発田藩と南部藩の寄進した灯籠があり、芭蕉らの句碑や歌碑が建立されている。最近まで南部藩の子孫が住み守っていたそうです。

和算額の説明板 

 和算額の説明板には問題が記してあり、さすが理系のガチャピン君!その一つを解説してくれました。問題を解いて奉納するスタイル、福島県の学力向上策としてどうでしょうか。

◆従是北白川領

 蒲生氏が立てた「従是北白川領」標石。慶応四年(1868)4月20日に白河城を占領した会津藩は、藩境の標石「従是北白川領」を倒させ「從是北会津領」の木標を立てて士気を鼓舞したといいます。維新後は「白河以北一山百文」とさげすまれることになり、東北日報は、東北人の反骨の意思が込めて河北新報と社名変更した...




 ここが白河関の跡※だと思われており、芭蕉もここから待望の奥州入りしたが、本当の関址は別の所だと聞き、さらに東に向かった。我々も芭蕉の足跡を辿ることにした。


※白河二所之関跡の碑

(解説するガイドのTさん)

 昭和57年国士舘大学岩田教授が、南部藩の関守子孫の石井氏ともに、ここぞ古代白河の関跡であるという説を提唱した碑を建てられています・・う~む?
 



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