ルノワールの名画をクラシック音楽のBGMを聴きながら鑑賞できる動画を作成しました。
★ルノワール絵画 第一集
★ルノワール絵画 第二集
★ルノワール絵画 第三集
19世紀の印象派の代表画家として有名なピエール=オーギュスト・ルノワール
(1841-1919)について調べてみました。
ルノワールの作品の特徴としては、初期のころは肖像画を多く描いており、
中期は若干色合いが渋めになっていますが、晩年にはまた優しく穏やかな
明るい色彩の絵を描いています。風景画や家族・親族・自画像・友人・画家・
画商・裸婦など身近な人物を始め、肖像画を描いてほしいとの依頼人や特定の
モデルなど人物画が多いのですが、静物画など幅広いジャンルを描いています。
奔放な筆勢や、多様な色彩、官能的な裸婦の表現、木漏れ日による人物や風景
への効果を研究した斑点状の描写など特徴的な表現で数多くの作品を残しています。
1862年に国立美術学校へ入り絵画を学び、またグレールの画塾ではクロード・モネ、
アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールらバティニョール派(後の印象派)と
呼ばれる画家たちや、モネの友人であったカミーユ・ピサロとも知り合って、共に
フォンテーヌブローの森で作品を制作しました。
カンヴァスと絵の具を戸外に持ち出し、目に見える風景を写しとっていきました。
木々や波、建物に写る光の反映を、色の細分化と筆触を重ねることで描き留め
ようと試みました。
遠くルネサンス以来の線的な遠近法や色彩のグラデーションによる三次元的な
空間の再現をも覆し、革命的とも言える清新な画面の数々を生みだすことにな
りました。
ルノワール、モネ、ピサロ、シスレー、モリゾ、ドガ、セザンヌなど、1840年前後に
生まれた一群の若い画家たちは、長い間、当時の美術家の登竜門とされた
「サロン(官展)」への入選を目指して挑戦と失敗を繰り返していました。次第に
サロンのあまりの保守性に嫌気がさした彼らは、1874年4月、「画家、彫刻家、
版画家などによる“共同出資会社”と名付けたグループを結成し、その第1回展を
パリのカピュシーヌ大通りにあった写真家ナダールのスタジオで開きます。これが
のちに「印象派展」と呼ばれるようになる記念すべき展覧会で、以後1886年に至る
まで計8回催されました。
ルノワールは1880年になると、光の効果を重んじ形状の正確性を失った純粋な
印象主義に疑問を抱き始め翌年にイタリア旅行しルネサンスの巨匠ラファエロ
などの作品に触れるほか、1884年にはカミーユ・コローの研究のため
ラ・ロシェーヌへ旅行。この1880年代は古典主義を探求し作風を変化させています。
1885年に息子ピエールが生まれ、その5年後の1890年に『田舎のダンス(1883年制作)』
のモデルを務めたアリーヌ・シャリゴと結婚、家庭を築きました。
1888年頃にリュウマチ性関節炎や顔面神経痛に襲われ、この病によって1880年代の
古典主義的な表現から豊満な裸婦画に代表される暖色を用いた豊潤な様式へと再変
させました。晩年期の1890年代からは体調がさらに悪化し、1911年には車椅子生活
を余儀なくされるも、痛みに耐えながら最後まで精力的に作品制作を続け、真偽のほど
はわからないですが、「指に筆をくくりつけて描いた」という伝説も生まれました。
78歳で亡くなっています。
ルノワールの作品総数は、4000点は下らないだろうと言われています。
小さな貴婦人ロメーヌ・ラコー嬢 1864年
クリーグランド美術館所蔵
フレデリック・バジールの肖像 1867年
オルセー美術館(パリ)所蔵
ラ・グルヌイエールにて 1869年
ストックホルム国立美術館所蔵
青衣の女(パリ女) 1874年
ウェールズ国立美術館所蔵
バレリーナ(踊り子) 1874年
ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵
アルジャントゥイユの庭で絵筆をとるクロード・モネ 1875年
ワズワース美術館(コネチカット)
素晴らしい作品の数々、
動画は音楽がルノワールの雰囲気を盛り上げ、高尚ですね。
雑念を忘れ、見入ってしまいました。
こんなにしっくりと絵と音楽が合わさるのは、美術館巡りが趣味のyukitoshiさんだからでしょう。
より多くの方に見て貰えるといいですね。