昨日は「奈良を歩こう会」のハイキングに参加し奈良県橿原市の
名所旧跡を訪ねました。
コースは次の通りです。
久米寺 → 橿原神宮 → 畝傍山 → 畝傍山口神社
→ 橿原考古学研究所付属博物館 → 本薬師寺跡
→ 猿沢の池(「釆女祭」)
久米寺
橿原神宮の一の鳥居を南に入ってすぐのところにあります。
一般に「久米の仙人」の伝説にちなんだ寺として知られてますが、
元々ここは久米部の武人の住んだ地といわれ、推古天皇の時に
聖徳太子の弟だった来目皇子(くめのおうじ)の創建と伝えら
れる古寺です。
創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、
本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われました。
境内には京都の仁和寺から移建された多宝塔(重要文化財)や
久米仙人像があります。
お昼は、橿原神宮周辺にある「ニューコト司」というお食事処で
うどんを食べました。私は「梅わかうどん」を賞味しました。
・・・梅干とワカメが入ったうどんでとても美味しかった。
うどんを出してくれたお店の女性がかなりの美人で、記念に店内と
あなたを写真に撮りたいと申入れましたが、断られました(笑い)
でもとても愛想のよい人でお店の名刺に名前を書いて挨拶してくれ
ました。次回橿原に来るときは必ず立ち寄りますよ。
橿原神宮
歴史は比較的新しく、明治時代に作られたものです。この神社の由来は、
日本書記に書かれている、神武天皇が大和の難敵を次々と征服し、畝傍山
のふもとに造営を思い立ったという史実に基づいています。
明治時代の国策と密接な関係があり、富国強兵の「神国日本」のシンボル的
な存在となっていました。礎石の一部は飛鳥時代の大官寺のものが使われて
おり、奈良の歴史を感じさせます。
橿原神宮は、全国22社ある官幣大社に指定され昭和天皇が紀元2600年奉祝
式典で参拝されるなど天皇とゆかりの深い神社で現在でも天皇の参拝意が
ある神社です。
神武天皇
初代天皇。もともと、皇帝孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に
降りられ九州の日向におられたが、天下の政治を行うため東に旅立たれました。
途中幾多の困難に遭われたが、ついに大和の国を中心とした国を平定され、
畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて、国の基をたてられたと
伝えられています。
畝傍山
畝傍山は香久山、耳成山とともに大和三山の一つで、名前はよく知られて
いますが、標高はわずか199メートル。
しかし、登山・下山ともに昼食に飲んだビールのせいでたいへんツラカッタ。
でも頂上から見た景色はほぼ橿原市を見渡せたいへん綺麗でした。
東麓には神武天皇陵、南麓には橿原神宮があります。
本薬師寺跡
現在、西の京にある「薬師寺」の前身にあたる本薬師寺は、天武9(680)年、
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念して、発願された寺であり、
文武2(698)年に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
養老2(718)年に平城京遍都に伴い平城京右京六条二坊に移転しますが、その
後も平安時代中頃まで、本薬師寺と呼ばれて存続していた寺であります。
このお寺跡地の周りは休耕田になっておりそこに多くのホテイアオイが栽培され
ていて、たくさんの見事な花を咲かせていました。
中秋の名月の14日、奈良市にある猿沢の池で「釆女祭」が行われていました。
「釆女祭」は、奈良時代に天皇の愛情が薄れたのを嘆き池に身を投じた釆女
の霊を慰めるために始まったとされる行事です。
雅楽の演奏が響く中、「ミス釆女」らを乗せた小船が池を廻りました。
暗くて見物客がたいへん多いので、うまく撮影できませんでしたが、
なかなかみやびな行事で見物出来て良かったです。
名所旧跡を訪ねました。
コースは次の通りです。
久米寺 → 橿原神宮 → 畝傍山 → 畝傍山口神社
→ 橿原考古学研究所付属博物館 → 本薬師寺跡
→ 猿沢の池(「釆女祭」)
久米寺
橿原神宮の一の鳥居を南に入ってすぐのところにあります。
一般に「久米の仙人」の伝説にちなんだ寺として知られてますが、
元々ここは久米部の武人の住んだ地といわれ、推古天皇の時に
聖徳太子の弟だった来目皇子(くめのおうじ)の創建と伝えら
れる古寺です。
創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、
本尊の薬師如来は、眼病に効くと言われました。
境内には京都の仁和寺から移建された多宝塔(重要文化財)や
久米仙人像があります。
お昼は、橿原神宮周辺にある「ニューコト司」というお食事処で
うどんを食べました。私は「梅わかうどん」を賞味しました。
・・・梅干とワカメが入ったうどんでとても美味しかった。
うどんを出してくれたお店の女性がかなりの美人で、記念に店内と
あなたを写真に撮りたいと申入れましたが、断られました(笑い)
でもとても愛想のよい人でお店の名刺に名前を書いて挨拶してくれ
ました。次回橿原に来るときは必ず立ち寄りますよ。
橿原神宮
歴史は比較的新しく、明治時代に作られたものです。この神社の由来は、
日本書記に書かれている、神武天皇が大和の難敵を次々と征服し、畝傍山
のふもとに造営を思い立ったという史実に基づいています。
明治時代の国策と密接な関係があり、富国強兵の「神国日本」のシンボル的
な存在となっていました。礎石の一部は飛鳥時代の大官寺のものが使われて
おり、奈良の歴史を感じさせます。
橿原神宮は、全国22社ある官幣大社に指定され昭和天皇が紀元2600年奉祝
式典で参拝されるなど天皇とゆかりの深い神社で現在でも天皇の参拝意が
ある神社です。
神武天皇
初代天皇。もともと、皇帝孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)がこの国土に
降りられ九州の日向におられたが、天下の政治を行うため東に旅立たれました。
途中幾多の困難に遭われたが、ついに大和の国を中心とした国を平定され、
畝傍(うねび)の橿原の宮において即位の礼をあげて、国の基をたてられたと
伝えられています。
畝傍山
畝傍山は香久山、耳成山とともに大和三山の一つで、名前はよく知られて
いますが、標高はわずか199メートル。
しかし、登山・下山ともに昼食に飲んだビールのせいでたいへんツラカッタ。
でも頂上から見た景色はほぼ橿原市を見渡せたいへん綺麗でした。
東麓には神武天皇陵、南麓には橿原神宮があります。
本薬師寺跡
現在、西の京にある「薬師寺」の前身にあたる本薬師寺は、天武9(680)年、
天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈念して、発願された寺であり、
文武2(698)年に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
養老2(718)年に平城京遍都に伴い平城京右京六条二坊に移転しますが、その
後も平安時代中頃まで、本薬師寺と呼ばれて存続していた寺であります。
このお寺跡地の周りは休耕田になっておりそこに多くのホテイアオイが栽培され
ていて、たくさんの見事な花を咲かせていました。
中秋の名月の14日、奈良市にある猿沢の池で「釆女祭」が行われていました。
「釆女祭」は、奈良時代に天皇の愛情が薄れたのを嘆き池に身を投じた釆女
の霊を慰めるために始まったとされる行事です。
雅楽の演奏が響く中、「ミス釆女」らを乗せた小船が池を廻りました。
暗くて見物客がたいへん多いので、うまく撮影できませんでしたが、
なかなかみやびな行事で見物出来て良かったです。