ねむたいむ

演劇・朗読 ゆるやかで懐かしい時間 

父のこと

2006-06-06 | Weblog
父のことはあまり知らない。子供の頃から家にいたりいなかったりで、そのうちまったくいなくなっていた。どこに住んでいるのか、何をしているのかも知らなかったが、たまに私だけに連絡があり、食事をおごってくれたり、洋服を買ってくれたりした。でも、そういうこともいつのまにかなくなってしまった。
十何年も音信不通が続いたある日、電話を取ると父の声がした。私の名前を呼ぶから、「お父さん?」と聞くと、「いやだなあ、僕ですよ」と答える。知り合いの男の子からだった。電話の彼はいつもは私のことを苗字で呼んでいる。その日に限ってどうして名前で呼んだのだろう、それにどうして若い彼の声が、父の声なんかに聞こえたのだろう。おたがいに変だネエと言い合って電話を切った。
父が亡くなったという知らせを受けたのは、その電話の、何時間かあとのことだった。

今、母が気に入ってよく行く喫茶店がある。中年の夫婦がやっている店で、店は汚くコーヒーはひどくまずい。一緒に行った時に小声で母に聞いてみた。「この店、どこがいいの?」母は少し笑って言う。「ちょっと似てるのよ、お父さんに」。
カウンターのなか、働き者の妻の横で、気弱そうな、でもどこか遊び人風のマスターが笑っていた。

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