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沖縄と北国の殿様

2022-05-14 | 旅行
おはようございます。

連休に出かけた山形県・米沢市・・・
江戸時代を通し、藩主は、武家の名門・上杉家でした。
その最後の殿様と沖縄県とにつながりがあった・・・

そんな話を知りました。

明日は「沖縄復帰50周年」でもあり・・・
どうぞ、おつきあいくださいませ。




そのことを伺ったのは、ボランティアガイドさんからでした。

「上杉家の、最後の藩主・茂憲(モチノリ)公は、
沖縄の県令(今の県知事)を命じられました。
米沢から、あんなに遠い、当時の沖縄は政情不安な場所ですよ・・・」と。

戊辰戦争で、米沢藩は、奥羽越列藩同盟に参加し、
新政府軍と戦っています。
敗れた米沢・上杉家への懲罰人事だと、おっしゃったのです。

上杉家は、武家の名門・・・
地元の方々の想いも篤く・・・
100年以上経っても、いまだ理不尽な思いが、垣間見えました。


(上杉神社)


さらに、市立米沢図書館で
高橋義夫『沖縄の殿様 - 最後の米沢藩主・上杉茂憲の県令奮闘記』
(中公新書)を、見つけたのです。

自宅に戻ると、さっそく、近くの図書館で借りて、読み始めました。



殿は、島内を歩き回り、民の声を熱心に聞きます。
それを県政に生かし、改革も辞さない・・・

在任は、1881年(明治14年)5月から1883年(明治16年)4月。
わずか、2年足らずで解任されてしまうのです。
 
明治政府との方針の対立、現地の士族の不満による密訴などが
原因でした。
新しい県令は、殿の政策を、ことごとく覆し、元に戻してしまいました。



それでも・・・

殿の県令着任から110余年の、1994(平成6)年、
沖縄県の有志が、県令の功績を称える顕彰状を贈るため、
殿の曾孫にあたる、上杉家当主・邦憲(クニノリ)氏を那覇に招いたのだとか。

(余談ながら、上杉邦憲氏は、宇宙工学の権威でいらっしゃるとか)

『沖縄の殿様』では
「茂憲が二年に満たない治政で沖縄に残した最良のものは、
これらの人材だったのである 221頁」と言います。



ここでいう「これらの人材」とは・・・
「沖縄の言論界、政財界の主流」太田朝敷( チョウフ)、高嶺朝教(チョウキョウ)、
そして謝花昇を指します。

彼らは、県費留学生として、東京で学ぶことができました。
「未来ある沖縄の少年を内地に留学させること」が
殿の、沖縄に着任して以来の念願でした。


(『人ものがたり 琉球・沖縄の先人たち 』琉球新報社。
沖縄の人々をコンパクトに知ることが出来ます。)


先に挙げた三人の中でも、謝花昇(ジャハナ ノボル)は
わたしでも知っている、沖縄の先人です。

内留後、謝花は東京山林学校(後の帝国農科大学)で学び、
十年後、沖縄に戻ります。

その後は「沖縄の農民のために汗水を注ぎ、自由民権運動の創始者」
となりました。

以前、沖縄を旅する前に、ちょこっと予習をしたときに覚えたのは、
沖縄学の祖ともいうべき伊波普猷 (イハ フユウ)と、謝花でした。
謝花は、早逝したこともあり、印象に残ったのです。


(米沢駅)


旅した米沢の殿様が、遙か南の沖縄とこんな風に関わっていたとは!
こんな風に、点と点がつながって、線となるのが旅の楽しみです。

明日は「沖縄復帰50周年」・・・
あの頃、私が読んでいた雑誌「小学〇年生」でも、特集が組まれ、
子ども心に、すごいことが起きたんだと思ったものです。

それから、何十年も沖縄を旅したことが無かったのは、
いろいろ考え込んで、ヘンに構えてしまったからで・・・
出かけてみたら、とっても楽しかった沖縄県♫

沖縄出身の知人が
「沖縄戦と基地のことばかり言われるのは嫌だ・・・」と
言っていたことも、忘れられません。

第二次世界大戦下の沖縄戦も、
基地問題も考えていかねばならないことですが
素直に沖縄と接していくことの力に、ようやく気づいた昨今です。



そうそう♫

来週の「ちむどんどん」は、我が横浜の鶴見が舞台となります。
よく知らないエリアなので、ハマッ子のアタクシも楽しみです。
(横浜市って、広いからね~~)


本日も、おつきあいいただき、どうもありがとうございました。


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本日の画像は、ことわりがないものは、
2020年1月沖縄への旅で撮影しました。

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