自分が五高に入ったのは明治二十年十月創立の際であった。当時は熊本城の西端古城の家屋を借用して授業を開始された。其の頃は予科三年本科二年其の後補充科が設けられて是が二年通計七年で、中学校卒業生は予科三級に入学するのが掟であった。
帽子の徽章は柏とオリーブの葉を交互に出し中央円型に高の字を表し、本科は白線三条予科二条補充は一条であったと思う。其の後度々学制の改革があって補充科を廃し予科本科を合して三年となり帽子の白線も二条となった。
創立の頃までは高等官蓄馬の名残で校長も教頭も皆馬を飼ったものだ。その際学校で乗馬三頭馬丁一人を置きそれに校長の馬と教官として聘せる警部の馬と合計五頭を素鞍のまま山崎連兵場(今の新市街)に牽き出し、各組五人宛て交互に乗馬生を筒抜し頗る硬教育法で教官は馬の後脚一肢を曲げて乗馬生をして後方から走りがかりに馬のさんづに飛び乗らしむるので、時には馬で臀部に頭を打ちつけ少なからず馬を驚かした事もある。
追々馬術の進歩を伴れて鞍を置く鐙を許さるゝ愈自由遠乗となる其の頃間では去勢せざる馬多く、自分は一度遠乗りの際田舎での駄馬の後を追い如何に留手綱を引けども挽けども留まらず終に馬上から抛り出され、船場橋の欄干に打ち付けられ足の頚を挫いた事がある。
兎も角学校として乗馬術を練習せしめたのは五高が創始だと思う。そうにしても乗馬馬丁の経費は如何にして支給せられたものか後で聞けば、図書費の大部分を振り向けられたものだそうな。初代野村校長の面目躍如たるものがある。