教室では白ひげを扱きながら指先でコツンコツンと机を叩き、入学して修身の授業に出ると各生徒から「私は何藩のものであります」と名乗らせた。時代錯誤の感なきしも各藩の志士と交わって藩特有の士気を心得ていたのでそうすることが訓育上必要であったのだろう。
或る時一人の生徒がおくれて教室に入ってきたとき、その姿をみるや大喝一声「王法に曰く、遅れて到る者は斬るとある。大事の聖賢の道を聴く講座に遅刻するとは何事じゃ、君は何藩か」と叱ったと言う事でその風格の一端が偲ばれるものがある。
全身道にならざるべからずと至誠一貫熱心な教育者で在職六年間、竜南人に生活と理想に多大の影響を与えた。
秋月先生の五高における終焉は「高齢に達し授業上の都合有り候に付今般非職命ぜられ以段申候也」と明治28年8月6日非職の上申がされ、仝年8月26日には非職が発令されている。それから非職の期間は約2年間で辞職時の理由書を紐解いてみると「当校非職教授秋月胤永より別紙辞表差出候為本人は七旬余の老年にて復職の見込無之候に付速かに願意御許容成候様致度此段上候也」と辞職の添申がなされている。その上で明治30年6月16日秋月先生本人より恩給請求書が進達されている。
以上参考文献 五高人物史、五高50年史から纏めた。