文政7年(1824)会津藩士丸山胤道の2男秋月性となる、秋月性は優秀なる藩士の家柄であった。(1833)10歳で藩校日清館に入学する。(1846)幕府の昌平黌に19歳で入学する。ここでは秋月苦学の間と言われ秋月の眠っている姿を見たことがないと言われた。(1856)昌平黌を32歳で卒業、(1857)新潟、尾張、西国巡遊し(1859)長州、薩摩、長崎を巡遊し見分を広めた。萩の乱の奥平謙輔や長州藩の家老でのちにフランスと国交を結んだ、河井準之助等々を見知る。(1860)38歳の時江戸に帰る。この時桜田門外の変起きる。
文久2年(1862)会津藩主松平容保京都守護職に就任する、そして秋月胤永は京都所司代の公用人に抜擢される丸山胤道の次男として会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校日新館に学び、南摩綱紀とともに秀才として知られた。1842年に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また諸国を渡る。
藩主松平容保の側近として仕え、1862年に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。遊学時代には薩摩へも渡ったことがあり、会津藩と薩摩藩が結んだ宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。佐幕派の反対を受け、1865年には左遷されて蝦夷地代官となる。
戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には手代木勝任とともに会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍首脳へ降服を申し出た。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり猪苗代において謹慎し、明治元年(1868年)には会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免される。同年新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。晩年は東京に住み、明治33年(1900年)、74歳で死去。
小泉八雲は、秋月を称して「まるで神の様な人であった」と述べた。
墓所は東京都港区の青山霊園にある。