嘉納治五郎と五高
講道館柔道の創始者・明治24年9月32歳の若さで第五高等中学校の第3代校長に就任
校長就任を働きかけたのは古荘嘉門(一高二代校長)佐々友房(済々黌創始者)津田静一(細川家家令)・・・熊本教育界の先駆者達
古荘嘉門、佐々友房・・・森文部大臣に国家主義教育に影響を与え第五高等中学校を熊本に誘致した功労者、・・・・二人は明治23年7月の第一回帝国議会衆院選挙に熊本国権党
から出馬・・当選・・国家主義教育推進の明治政府を地方から下支えの構図が見える。
嘉納の五高在任は明治26年1月迄の約1年半であったが五高の校風形成の構築九州の教育界、スポーツ界に残した功績は大であった。
五高を訪問した時の嘉納治五郎と送別のときの記念写真
嘉納治五郎が熊本に赴任した経緯は・第2代校長は平山太郎は三高の幹事からの赴任であった、当時野村の次の校長は佐々友房らは嘉納治五郎に校長就任を要請していたが嘉納は拒否していた。しかし在任中に平山の死去により受託した、
明治24年8月13日任命されると・・9月には単身赴任する。…木下広次の媒酌で竹添進一郎の娘・須磨子と結婚式を挙げた直後、で前職学習院では三浦悟郎と教育方針で対立していた。
学習院院長の変遷は立花種恭(三池藩)・・大島圭介・・谷干城・・三浦悟郎と続いているが、三浦は院長になり当局の体制を押し付けた。谷の時は嘉納を明治18年幹事にさらに明治19年には教頭に抜擢した、自分の起案した学科課程も改正した
(治五郎が学習院で取り組んだ問題)
火事があり一高の教室を借り焼け跡にバラックを建て教育
レベルに合わせたクラス編成
差別教育をなくし、よい人間を送り出すことを目的とする
大正天皇の入学にあたり宮中顧問官だった丸尾錦作を猶興館から教育掛として呼び戻した
学習院の教育では院長はじめ藩主の息子に遠慮していたが、治五郎はこれには反対であった。
院長三浦悟郎は教育の中身より形を整えることに腐心していた。ある士族の生徒が留学を宮内大臣の内意を受けて決めていたが華族でないと駄目だと留学を取り消した差別があった。
三浦との対立が大きくなり三浦は治五郎の教頭を免じて一年間の海外留学をさせている。治五郎は欧州留学では教育と宗教を勉強しキリスト教の裏まで把握し以後教育家としての道を歩いて行くことになる。
講義のメモ等を駆使してその概要をまとめたもので、明日もまた続編を掲げることにした。