昨日の続きで武藤校長の想い出の記・・・・・・・雪荷流弓術師範士に生駒先生と云うのが居られて、既に古城時代から弓術を師範されて居た。道場と云っても不完全なもので城堞上に標的を樹て数人並んで的に向うそれ矢も随分有ったが、大抵城壁間の蓮濠に墜つる。本城の石垣まで届くのは容易になかった。
古城の城内に大きな芭蕉があって、秋の葉枯れの頃其の茎を的に矢を放てば累々と音を発する。其の面白さに一日猛者連一同頻りに芭蕉を射る。折しも校長巡視し来り此状を見て赫然激怒弓道の本義は何処にあるか、殊に借地内の樹木を損するなどもっての外の振舞いなりとて早速弓術稽古に差止めを命じ、生駒先生は哀れ謹慎の身となられた。其の後特赦に遭い弓術も復興する事となった。
創立の際は九州猛者連の集まりとて、時々賄い征伐が行なわれた。時の幹事椿先生は余りにも下品なりとて先生が何処かで実施せられた自炊制度の実行も勧められた。そこで物品購入係や保管係や出納会計夫々の係を設け自分が其の委員長となった。何がさてやって見ると無経験者の揃いとあって、残飯は廉価に払い下ぐる毎週献立も御馳走多く、月末計算の結果一日食費九銭に騰がった。請負賄の時より一日一銭余りの騰貴となって、寮生の小言紛々たる有様当時米一升代金八銭以下なれば、一日一銭の騰貴は学生に多大の影響を与えたのも無理はない。早速残飯利用策を講じ献立に豆腐糟などを交えて調節を謀り、是事を後任者にひきついだ事がある。自炊制度も実学問として頗る修行になったと思う。其の後此制度如何なりしや。
自分等の卒業少し前に嘉納治五郎先生が文部省から五高校長に転せられた。由来熊本は柔剣弓槍等武芸の盛んなる所である。先生始めて講道館柔道を唱え、寄宿寮寝室の畳を階下の実習室に敷き詰め、投げの型や絞め固めの業から乱取りなどやらされ、後には本館背後の控え室を畳敷きに改め殆ど柔道場となった。自分は前歯を挫いて居るので型だけの稽古で有ったが、仲々技術抜群の猛者が出た。高等学校で柔道を課する事となったのは蓋し五高が嚆矢であろう。剣道は古来最盛の場所柄で五高創立以来隆盛を極め、技術優秀の士彬々輩出した。堀貞赤星陸治氏などは腕を鳴らしたもので今も尚稽古を励んで居る。
自分は明治二十年入学同二十五年大学に進み二十八年から四十年春までは母校教授であったので記憶をたどれば牛の涎のだらだらと蓋かきる所がないが委員から依頼の紙数には制限がある。先は是処らで筆を擱く。・・・・・・・以上想い出の記を転載した
(参考)武藤虎太校長について 肥後が生んだ教育界の人物で菊池郡戸崎村の生まれ、厳父は一忠,虎太は五高第1回の入学生であり、また第1回の卒業生であった。五高在学中から凡ての面において第一人者と言える人であった。 五高剛毅木訥の学風を造り上げる実際の仕事が第1回の入学生数十人の双肩に・・・、これらの人々は五高校風の生みの親ともいうべきその中心人物であった。明治28年帝大赤門国史科を特待生の成績で卒業、同窓生中第一番に教授になり、しかも母校の教授として就任した在職中朴訥勤勉振りを以て謳われた.栗野事件の余波を受け二高教授に転任、二高では教頭から居座ったまま・・校長へのぼりつめ敏腕を振るった。 その後欧米遍歴し、帰朝後金沢の四高校長、・・・ここでは10年在職する。 五高校長として赴任したのは陸軍大演習が行われた昭和6年1月であった。前任の溝渕進馬校長とは同窓同学の間柄。五高赴任直後大演習が行われ、宮内庁、文部省との折衝で多忙を極める、熊本へ帰る途中京都駅で腎臓炎になりそのまま、入院1ヶ月経て退院て奉迎準備を整えた。 昭和天皇11月15日の五高行幸の日には天皇から「健康はどうか、なお大切にするように」といわれ、この感激と光栄は武藤校長の生涯の思い出であったと言う。 教育は職業と言うより道楽とも言うべきで高潔で指定の塾愛で学生からも愛されたということであった。若い頃より漢学に造詣深く菊漂と号し、また謡曲の大家であった。