昨日の続き・・・ 明治二十年頃は中学でもベースボールが創められて居たので、五高にも野球の一団が有った。
器具と云えばバットとボールとシートだけでマスクもミットも脛当も胴もない皆徒手空拳で掴むので、随分危険であった
而も鉛を包んだ革張りの球で捕捉も容易ではなかった。殊に規則とて詳細の規定はない
ファール何度やっても三打の外で時間の懸かること夥たゞしい。デットボールだからとて一塁を取るの利得もなく結局打たれ損である。
バントだの犠牲だなどという小悧巧な方法も知らぬ随分未然なものであった
自分は一度古城内の球場で二塁手となった。折しも真向うから日光直射して打球を受け損じ鼻下に中り其の場に卒倒し上顎の歯二本歯鰐部から折れた。
今も前歯一本は接歯である。斯様の事を思えば今年五高野球部が優勝し更に東部で優勝したなど実に隔世の感がある。
・・・・・・・・以下は明日転載する
これから見えることは古城時代にすでに第五高等中学校に於いては野球が行われていた。この野球部が神宮球場で開催されていた全国高専野球大会で
広岡知男選手始め高橋一投手を擁して優勝している。
広岡知男についてウイキベリアを転載する
[1907~2002]新聞経営者。大阪の生まれ。学生時代は野球で活躍。昭和7年(1932)朝日新聞社に入社し、経済記者として健筆をふるった。同42年社長。同52年会長。アマチュア野球に携わり、野球のオリンピック参加にも尽力した。 |