五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

霜月になって考える

2014-11-02 04:20:59 | 五高の歴史
朝から寝床から離れるのが嫌な季節である。11月になった途端急に寒さが増して来たようである。天気予報によれば来週はまた暖かさが返えるとか?樹木の葉も紅葉はなくして落ちてしまったり
銀杏の実がまだ青いままで落下して異常な臭いを発したり、自然は何かおかしい。

五高記念館に於いては十一月一・二・三の三日間か行われているはずの学生の祭り湧水祭、今はまた名前が変わっているようで俺の時代の黒髪祭りの名を聞くは懐かしいが・・・・。今の学生は個人主義で常に自分中心でこの熊粋祭が始まってもうかれこれ、三十年になるか、まだ俺が現役の時代、それまでの黒髪祭、これは学校の住所が黒髪町にあるので黒髪祭と言うことで行われていたのであったが、学園紛争の名残は依然として性格が強く職員はその対応のためこの時期になると学生の対応を考え徹夜を覚悟しなければならない時代から学生は黒髪祭を告発祭として大学当局を告発するという趣旨でこくはつ祭と称していたものであった

しかし学生の間でもこの告発祭に嫌気がさしたのであろうか、だんだんこの祭りを実行する学生もいなくなり黒髪祭は終演になって一方この時期になると学生の祭りの火は消してならないという、数名の有志の学生も現れ、大学当局から承認された学生の祭りを創造しようということになり熊粋祭が始まったのであった。

学生部委員会はこれを如何に学生の祭りとして育てていくか検討され、あれこれの事情を考慮して熊粋祭が開催されたのであった。俺の時代から数年後まではバザー用の天幕が構内いたるところに張り巡らされ車の駐車場もない状態が続いた。しかしその後は構内は歴然と整理され外部からの車の進入は簡単にできる状態になって行った。

それは酒は飲まない、飲ませないという学生の気分が浸透し、夜は八時にはすべての催しものを終了するという、変われば変わるものであるということを実感し感心した。そして一気飲みして死亡した学生まで現れて大学当局も大分神経を尖らした賜物であったのかもしれない。

今はただ外部の人間として眺めているだけであるが、学生に対応する当事者としてかれこれ五〇年になろうか、その時代の幹部であった学生諸君の当事者もまだ元気であろうか、生きているだろうかとこの時期になると考えるこの頃である