旧制第五高等学校の歴史、エピソードを調査しているが、勤労奉仕と云う言葉を知った人も殆どいなくなったと思うが特に第2次世界大戦の末期には田舎の田植えそして稲刈りもする人手がなくなって学生・生徒は勤労奉仕で駆り出されていた。昭和18年ごろ祖母の実家の農家にも勤労奉仕の学生が手伝いに来ていた。今朝はその始まりを眺めてみることにした。
五高生の勤労奉仕作業の始まりは昭和十三年八月三十日からであった。これはかってなかったことで、この年から初めて開始された。毎朝五時に起床して朝食を終わり室園まで歩き無蓋電車で陸軍用地菊池飛行場建設予定地まで行く、帰寮は午後四時となり入浴、夕食九時点検という規則正しい生活であった。作業は桑株の除去作業で師弟とも一致して汗と土にまみれての生活は崇高であった。昭和十三年と言えば俺など生まれたばかりで世情など全く知らなかった時代である。
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写真は現在残っている五高時代の建物 正門と化学実験所
五高生の勤労奉仕作業の始まりは昭和十三年八月三十日からであった。これはかってなかったことで、この年から初めて開始された。毎朝五時に起床して朝食を終わり室園まで歩き無蓋電車で陸軍用地菊池飛行場建設予定地まで行く、帰寮は午後四時となり入浴、夕食九時点検という規則正しい生活であった。作業は桑株の除去作業で師弟とも一致して汗と土にまみれての生活は崇高であった。昭和十三年と言えば俺など生まれたばかりで世情など全く知らなかった時代である。
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写真は現在残っている五高時代の建物 正門と化学実験所