五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

原爆について考える

2015-08-06 09:01:40 | 五高の歴史
昭和20年に広島・長崎に原子爆弾が投下されて70年と言うことで報道関係では色々戦争のことについて掲載され、照会されている。長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日の昼ごろ熊本市の俺の家でも何かゴロゴロとかみなりの音のようなものがが聞こえた記憶がある。翌日の新聞には長崎にも新型爆弾と言うことで紹介されていた。詳しいことはわからなかったのだろう。それまでは我ら子供は常に防空壕から防空壕と穴倉暮らしに追い立てられていたものであった。

しかしその後はアメリカ軍の空襲は熊本地区はほとんどないようになった。例の高射砲隊が付近に駐屯していたものなどが何処かへ行ってしまったと言うこともあった。今思へば時の軍隊は一般国民のことなどどうでもいいというようなことで自分たち軍隊のこと中心に考えての感じであった。日本は負けるとでもいうならそれこそ非国民と言われて大変であった。この時点で負けると言った人には何と屁理屈を云ったのか、思い出せば10日くらいの時点で軍隊の下部までは連絡もなかったのだろう。まだ勝つ、まだ勝つの考えばかりで兵隊が言うことも一理はあったのだろう。

この兵隊の連中さえ訳は分からなかったのだろう、この駐屯している兵隊との話で母は日本は負けるようですねと言ったかと思ったが兵隊はそんなことはない勝つと大変な剣幕で怒ったものであった。ところが2~3日先になり全くの無条件降伏になりその兵隊にどうです言わんことじゃなかったでしょうと言って文句を言えば全く何も言わずに逃げてしまったという事であった。この時期から政府は一般国民のことなど知らないと思っていたものであった。先に付近の小学校への焼夷弾攻撃で隣に箪笥屋があったがそこの嫁さんが防空壕の中で機銃照射等に会い殺されていた。まったく戦争というものは一般国民だけが馬鹿にされた感じであった。絶対に戦争などするべきものではないと今でも思うのである。