当時の会津藩の政治状況
桜田門外の変の後、老中安藤信正は、公武合体を進め、孝明天皇の妹和宮を家茂の夫人に降嫁の政略結婚を・・信正は坂下門外の変で失脚する
安藤 信正(あんどう のぶまさ)は、陸奥国磐城平藩の第5代藩主。安藤家第10代。幕末 に若年寄、次いで老中を務めた。磐城平藩第4代藩主・安藤信由の長男。母は大河内 松平信明の娘。幼名は欽之進、後に欽之介。元服時の初名は信睦(のぶゆき)、老中...
薩摩藩島津久光は独自の立場から幕政改革を要求した。幕府は文久2(1862)年松平慶永を政事総裁職、徳川慶喜を将軍後見職、松平容保を京都所司代職に、容保は公用方を設置した。
島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の 政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。 明治政府の内閣顧問、左大臣。玉里島津家初代当主。 位階勲等爵位は従一位大勲位 公爵。
秋月は公用人に抜擢される(公用方の仕事)高崎正風に出会い公武合体に奔走する。
高崎 正風(天保7年7月28日(1836年9月8日) - 明治45年(1912年2月28日)は志士、作詞家。二条派の歌人。通称は左太郎、他に伊勢、豊麿、左京とも。号は宝義堂。長男元彦は日露戦争で戦死。
人物 [編集]薩摩国川上(現在の鹿児島県鹿児島市川上町)出身。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男。母は登米子(新納常善女)。
明治20年(1887年)5月には、維新の功が認められ男爵を授けられた。明治31年(1898年)勲一等瑞宝章、明治38年(1905年)勲一等旭日大綬章、死去にあたっては正二位勲一等旭日桐花大綬章を授けられる。
御歌所派とも呼ばれる旧派和歌の中心。「紀元節」(作曲:伊沢修二)、「勧学の歌」(作曲:奥好義)、「水漬く屍」(作曲:吉本光義)などの作詞も担当した。
幕末薩摩藩の人物歌人日本の作詞家鹿児島県出身の人物日本の教育者明治時代の人物日本の男爵日本の枢密顧問官1836年生1912年没
秋月の奔走に公武合体で会薩同盟、8,18事件禁門の変まで
八月十八日の政変とは、江戸時代末期の文久3年 8月18日(1863年9月30日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である。京都禁裏九門の一つ、堺町御門の警備に当たっていた長州藩が攘夷派公家と内通し、討幕をもくろんだとして、薩摩藩・会津藩が尊皇攘夷派を京都から一掃した。公武合体派のクーデターで、三条実臣ら7人の公家を長州に追放した。
七卿落ち
1863年8月18日の政変で公武合体派に敗れて失脚した、尊攘急進派の公卿三条実美(さねとみ)・三条西季知(すえとも)・四条隆謌(たかうた)・東久世道禧(みちとみ)・壬生基修(みぶもとなが)・錦小路頼徳(よりのり)・沢宣嘉(のぶよし)が、京都を脱出して長州藩へ逃れた事件。翌年、再挙を図って「蛤(はまぐり)御門の変」が起こった。
禁門の変
前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、大平の世を揺るがす大事件であった大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は久坂玄瑞・真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った徳川慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征伐が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。
「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
蝦夷に左遷された秋月胤永
帰省中に禁門の変を聞き京都に帰った秋月に非職の命下る。家老横山主税の死去により佐幕派の台頭、秋月は1865年9月蝦夷地代官として斜里へ赴任する。
会津、仙台、秋田、庄内、弘前、盛岡の6藩で北辺の海防の強化、
会津藩の領分は西別より網走境迄,標津・斜里・紋別に会津の代官所置かれていた。