何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

「中華料理の晩餐  輝いていたあの頃の祥一郎」

2016年05月07日 | ひとりぽっち



私は中華料理店で働いたことがある。

専門に修行したわけではなく、宅配専門の、少々レシピと中華鍋の振り方を習えば、基本的には誰でもできる、安直な中華料理店だ。

都合7~8年くらい勤めただろうか。

大阪で勤め始めたのだがその店が閉店し、東京に舞い戻って来たのも、知人がその店のフランチャイズのオーナーをやっていて、人手が欲しいということが切っ掛けだった。
そう、今のこの街に住むことになったのもそれが理由だ。祥一郎と二人で。

もう何年も前にリーマンショックで売上がガタ落ちし、私はリストラされてしまい、その店も無くなったが。


でもまあそのおかげで、私と祥一郎と二人の食卓には、インスタントではないそれなりの中華料理が並ぶことも多かった。

マーボー豆腐、海老チリ、チンジャオロース、カニ玉、八宝菜、勿論カラアゲや、ニンニクの芽の炒め物等々、一応一通りの中華料理のスキルは持っている。勿論クックドゥなど使わない。

その中であいつが一番好きだったのは、五目あんかけ焼きソバ。
麺をこんがりきつね色に焼いて、野菜と肉エビタップリの、甘辛醤油味の餡をかける。
そこらの店で食べるとウズラの卵は一個しか入っていないが、あいつが好きだったからウズラは10個くらい入れる。

出来上がるとあいつは、自分のウズラの数と私のそれを数えて、自分のものが少ないと、「わああ、いやらしい。自分だけ。」などと言って、私のウズラをかっさらっていく。

そんな楽しいひと時が好きで、よく作ってやったものだ。

最後に作ったのはいつだったろう。もう今後、作る事は無いのかもしれない。


そういえば、祥一郎も、私の出逢う遥か以前の若い頃、大手中華料理チェーン店の東天紅という店でアルバイトをしていた。おそらく学生の頃だったのだろう。

その時の話をよく私に聞かせたものだ。

やれ厨房の中国人がムカつくだの、賄いが不味いだの、誰それの有名人がよく来ていたとか、東天紅のあれは美味しかった等々。

そしてアルバイト仲間とも仲良くやっていたらしい。その頃の楽しそうな写真が何枚も有った。

お前が亡くなった後、いくら探してもその写真は未だみつからないけれど・・・・・・・。

唯一残ったのがトップ画像に貼ってある、お前がその店を辞める時に貰った、仲間達からの寄せ書きだ。
私と出逢ってからも、大事に持っていた。

今は仏壇の上に飾ってある。もうセピア色に古びているけれど、楽しかったアルバイト仲間との触れ合いを象徴するものだから、いつまでも飾っておくつもりだ。

あの頃お前は若くて血気盛んで、自分のこれからの人生を夢見ていたんだと思う。

劇団の仕事も兼ねながらのアルバイトだったとも聞いた記憶がある。

一生懸命生きていたのだろう。
ある意味祥一郎が輝いていた時期だったのかもしれない。生活は苦しくとも、仕事と仲間、そしてまだ見ぬ輝かしい未来。

お前の遺品の中からその東天紅の誰かの名刺、おそらく上司の社員のものだろう、それがあったので一度連絡してみた。しかしもう何年も前に辞めてしまって、連絡も取れないとのことだった。

できればその人を通して、あの寄せ書きを書いてくれた仲間達にお前が天に召されたことを知らせたかったのだけれど。それは出来そうもない。



祥一郎・・・・・・

あの頃は楽しかったんだろう?でなければ、後生大事にあの寄せ書きを持ち続けていないだろうし、その当時を知らないおっちゃんに話をするはずが無いものね。


お前が生きていたら聞いてみたいような気もする。

「おっちゃんと出逢ってからとあの頃と、どっちが楽しい想い出が多いの?」と。

「そんなん、あの頃に決まってるやん。」なんて言われたらおっちゃん立つ瀬が無いな。

でもひとつ覚えておいて欲しいよ。

お前の生きた証を残すのはおっちゃんしか居ないと信じているし、誰よりも愛していた、今も愛しているのはおっちゃんだけだって。

それだけは覚えておいて欲しい。

ねえ祥一郎・・・・・・・・・・・

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