(青春18切符とネットカフェの旅)
この日は静岡県 浜松市に行きましたニャー。
浜松市美術館で「近藤喜文展」開催されていましたニャ。
近藤喜文さんはスタジオジブリと深い関係があり、代表として「耳をすませば」の監督をしていますニャー。
そのため、至る所にムーンが歩いていますニャ。
ニャぜ、カオナシ?(笑)
↓写真を撮れる所
↑
帽子をかぶって撮ることができますニャー。
あと、音声ガイドでは、月島雫の声を担当した本名陽子さんがやっていましたニャ。
近藤喜文さんはスタジオジブリだけではニャく、宮崎駿さんと、今年亡くニャった高畑勲さんの作品の作画や原画、それ以外の多くのアニメ作品にも携わってきましたニャー。
近藤喜文さんの作画はリアルニャ描写が特徴で、「おもひでぽろぽろ」では、あえてシワを描くことでリアル感を出していますニャ。
宮崎駿さん、高畑勲さん共に、近藤喜文さんの才能を認めていて、「となりのトトロ」、「火垂るの墓」の作画で、近藤喜文さんの奪い合いが起こっていますニャ。
お互いに、「近藤喜文さんがいなければ作らない」みたいニャことを言っていて、結局、高畑勲さんの「火垂るの墓」に参加することにニャりましたが、
「火垂るの墓」の『日本人のリアルニャ描写』は近藤喜文さんのおかげと言っても過言ではニャいですニャー。
後に、宮崎駿さんの企画で「耳をすませば」の監督を任されますニャ。
実は、ネット上で、「『耳をすませば』は自殺を誘発する」という都市伝説があるんですニャ。
おそらく理由の一つとして、
「うまくいき過ぎる思春期の恋愛の展開」と「近藤喜文さんのリアルニャ演出」により、
視聴者自身の恋愛体験と比較しやすく、自身の人生に劣等感を抱いてしまうためだと思いますニャー。
実際、視聴後、劣等感を抱く人は多いらしく、「自分、こんな良い人生送ってこなかった。」と思うらしいですニャ。
スタジオジブリだけではニャく、次代の日本のアニメーションの将来を嘱望されていましたが、47歳の若さで急逝しましたニャ。
劇場用長編アニメーションの監督は「耳をすませば」の一本のみ、
日米共同製作アニメで進められるも、様々ニャ対立や降板により中断、パイロットフィルムとしては、「NEMO/ニモ」の監督を務めましたニャ。
近藤喜文さんは絵コンテも多く担当していて、中には「絵コンテの段階で企画が頓挫してしまったアニメ企画」も多く、その絵コンテも展示されていましたニャー。
また、仕事とは別に、自分で考えた架空のアニメの絵コンテを練習として描いていましたニャ。
近藤喜文さんの葬儀の出棺の際には「耳をすませば」の主題歌である『カントリー・ロード』が流され、
宮崎駿さん、高畑勲さんはそれぞれ、「近藤喜文さんが死んだのは自分のせい」と思っているらしいですニャ。
さて、僕の「耳をすませば」を少し。
僕が初めて「耳をすませば」を観たのは、確か中学校入ってすぐの頃だったと思いますニャ。
映画では、月島雫は中学3年生の設定だったので、
「自分もこんニャ恋愛ができる」と思っていましたニャ。
まあ、できニャかったんですけどニャ(笑)
そして、月島雫が大学ノートに物語を書く場面を真似して、
高校受験の後、高校入ってすぐに、大学ノートに物語を描き始めましたニャー。
でも、結局すぐに大学受験で忙しくニャり、ノート2ページ程度で止まったままですニャ。
ただ、後に妹のTSUNYAが、そのノートを見つけ、
「この続き、めちゃくちゃ気になるんだけど!」
と言われ、当時あまり構成を考えず書き出していたため、どういう物語を書いていたか覚えていませんが、
今後書く機会あれば少しずつ書いていこうかと思っていますニャ。
夕食には浜松餃子を食べましたニャー。
浜松餃子で結構有名ニャ店
浜松餃子の定義は、
「3年以上浜松に在住して、浜松市内で製造されている事」だけですが、
特徴としては、
・茹でもやし
・円型焼き
が挙げられますニャ。
この日は静岡県 浜松市に行きましたニャー。
浜松市美術館で「近藤喜文展」開催されていましたニャ。
近藤喜文さんはスタジオジブリと深い関係があり、代表として「耳をすませば」の監督をしていますニャー。
そのため、至る所にムーンが歩いていますニャ。
ニャぜ、カオナシ?(笑)
↓写真を撮れる所
↑
帽子をかぶって撮ることができますニャー。
あと、音声ガイドでは、月島雫の声を担当した本名陽子さんがやっていましたニャ。
近藤喜文さんはスタジオジブリだけではニャく、宮崎駿さんと、今年亡くニャった高畑勲さんの作品の作画や原画、それ以外の多くのアニメ作品にも携わってきましたニャー。
近藤喜文さんの作画はリアルニャ描写が特徴で、「おもひでぽろぽろ」では、あえてシワを描くことでリアル感を出していますニャ。
宮崎駿さん、高畑勲さん共に、近藤喜文さんの才能を認めていて、「となりのトトロ」、「火垂るの墓」の作画で、近藤喜文さんの奪い合いが起こっていますニャ。
お互いに、「近藤喜文さんがいなければ作らない」みたいニャことを言っていて、結局、高畑勲さんの「火垂るの墓」に参加することにニャりましたが、
「火垂るの墓」の『日本人のリアルニャ描写』は近藤喜文さんのおかげと言っても過言ではニャいですニャー。
後に、宮崎駿さんの企画で「耳をすませば」の監督を任されますニャ。
実は、ネット上で、「『耳をすませば』は自殺を誘発する」という都市伝説があるんですニャ。
おそらく理由の一つとして、
「うまくいき過ぎる思春期の恋愛の展開」と「近藤喜文さんのリアルニャ演出」により、
視聴者自身の恋愛体験と比較しやすく、自身の人生に劣等感を抱いてしまうためだと思いますニャー。
実際、視聴後、劣等感を抱く人は多いらしく、「自分、こんな良い人生送ってこなかった。」と思うらしいですニャ。
スタジオジブリだけではニャく、次代の日本のアニメーションの将来を嘱望されていましたが、47歳の若さで急逝しましたニャ。
劇場用長編アニメーションの監督は「耳をすませば」の一本のみ、
日米共同製作アニメで進められるも、様々ニャ対立や降板により中断、パイロットフィルムとしては、「NEMO/ニモ」の監督を務めましたニャ。
近藤喜文さんは絵コンテも多く担当していて、中には「絵コンテの段階で企画が頓挫してしまったアニメ企画」も多く、その絵コンテも展示されていましたニャー。
また、仕事とは別に、自分で考えた架空のアニメの絵コンテを練習として描いていましたニャ。
近藤喜文さんの葬儀の出棺の際には「耳をすませば」の主題歌である『カントリー・ロード』が流され、
宮崎駿さん、高畑勲さんはそれぞれ、「近藤喜文さんが死んだのは自分のせい」と思っているらしいですニャ。
さて、僕の「耳をすませば」を少し。
僕が初めて「耳をすませば」を観たのは、確か中学校入ってすぐの頃だったと思いますニャ。
映画では、月島雫は中学3年生の設定だったので、
「自分もこんニャ恋愛ができる」と思っていましたニャ。
まあ、できニャかったんですけどニャ(笑)
そして、月島雫が大学ノートに物語を書く場面を真似して、
高校受験の後、高校入ってすぐに、大学ノートに物語を描き始めましたニャー。
でも、結局すぐに大学受験で忙しくニャり、ノート2ページ程度で止まったままですニャ。
ただ、後に妹のTSUNYAが、そのノートを見つけ、
「この続き、めちゃくちゃ気になるんだけど!」
と言われ、当時あまり構成を考えず書き出していたため、どういう物語を書いていたか覚えていませんが、
今後書く機会あれば少しずつ書いていこうかと思っていますニャ。
夕食には浜松餃子を食べましたニャー。
浜松餃子で結構有名ニャ店
浜松餃子の定義は、
「3年以上浜松に在住して、浜松市内で製造されている事」だけですが、
特徴としては、
・茹でもやし
・円型焼き
が挙げられますニャ。